NOTES
UP
【職人探訪】第2回 – 楽器テック:永野治[MOBY DICK]後篇
- Text:Zine Hagihara
ミュージシャンが活躍する裏側には、その相棒とも言える楽器や、彼らの戦場となるステージなど、音楽を支える職人たちがいる。彼らが持つ役割は、音楽業界には欠かすことのできないものであるが、職人たる技術を身に付ける道中は厳しい。彼らはどのような経緯を以ってその職に携わっているのか。この企画では生い立ち、下積み時代、そして現在地までを深く掘りさげ、御用達のベーシストたちの証言を交えて職人たちの哲学をひも解いていきたい。第2回は凄腕テックを擁する株式会社モビーディックの社長、永野治の後篇をお届けしよう。
前篇はコチラよりどうぞ
駆け抜けるバンドで確立した、テック/ローディの役割
RED WARRIORSというバンドは、1985年の結成から約4年ほどで一度解散している。この数年の間に4枚のフル・アルバムのリリースと、二度にわたる西武球場公演、日本武道館に至っては3デイズと2デイズ公演を行なうなど、もはや伝説的とも言える大躍進を短期間で果たした。そのなかで永野は、テックやローディといった楽器にまつわる職業が確立されていなかっただけあって、暗中模索で現場に取り組んだ。
“素人なりにプロのPAさんや照明さんに混じっていたわけですけど、職業として確立されていなかったからこそ、僕でもできたところはあります。何をすりゃいいのかわからないけど、「ステージでの演奏」以外のことをやればいいわけですから。つまり、本番中はなにも起きないようにすること。音が出なければトラブルのもとを即座に探して、ドラムのヘッドが破れたらすぐに交換できる準備をしておく。そういったことを注視して、小さなライヴハウスからスタジアムまで働きました”。
まだまだ素人同然の永野の報酬はわずかなものであったが、小さなハイエースでメンバーと5人だけで全国を回る日々は、裏街道で日銭を稼ぐ生活よりも輝かしいものに感じた。だからこそ、必死に取り組んだ。
“「誰も出したことのないサウンド」を目指しているバンドでは、楽器に対するプライオリティがより高いんです。それをどれだけ理解できるのか。そのためにすごく勉強しました。楽器の調整はプレイヤーによっても方向性が変わるのでひとつずつ覚えて、ツアーに出始めた最初は、小さなホールとはいえ僕ひとりで機材の設営もやりましたね。それからバンドの規模が大きくなって、機材をトラックで運ぶようになったらローディの人数も次第に増えていきました”。
“メカ好きの自分を思い出すような日々でした。小さい頃の自転車いじり、工業高校で習ったメカにまつわる知識など、それまでに勉強したすべてが役に立ったんです。ステージで電気を確保するときに数字として見ることだったり、楽器や設備を図面的に見る場面もありましたしね。例えば、ワイアレスは電波が入らなくなるなどの事故がかなりありましたけど、工業高校で学んだことを生かして、どこで絶縁すればノイズが減ったり、トラブルなく接続してくれるかっていうことがわかったんです。あの頃の鬱屈した自分も含めて、それまでが無駄じゃなかったんだなって”。
永野の青春時代の鬱憤や不満も乗せて、バンドは一気に走り抜ける。そして、あっさりと突然、解散した。
VOICE OF BASSIST – 01
高橋達哉(THE PRIVATES)
——永野治さんのテックとしての技術力をどのように思いますか?
抽象的な要望にも、的確なアドバイスを与えてくれてました。ちょっとしたことにも丁寧に対応してくれるし、彼が現場に居てくれると本当に頼りになります。安心感がありますね。
——永野さんに関する印象的なエピソードを聞かせてください。
海外でのレコーディングなどでも、明るい人柄と持ち前のコミュニケーション能力で、すぐに現地スタッフと仲良くなってましたね。アメリカのルイジアナ州に行ったときには、日本からカレーのルーを持って来ていて、スタジオで自分で調理してカレーライスを振舞ってました。髪型から服装まで、誰よりもアメリカが似合ってましたよ。
——約30年もの間、永野さんがモビーディックの代表として音楽業界を支えてこれた理由はなんだと思いますか?
ロックの親分的な豪快さと、会社として成り立たせて行く地道さ。そして何より音楽に対する真面目さですかね。彼の会社のメンバーは本当に良い子ばかりでした。もう長いこと会ってないですが、みんな相変わらず楽しくやってるんだろうなって思います。