NOTES
狭山での生活と細野晴臣
憧れのバンド、はっぴいえんどのギタリストである鈴木茂が突然目の前に現われ、自分たちを誘ってくれたのは、田中にとっては青天の霹靂で、偶然としか思えなかった。しかし偶然はそれだけではなかった。鈴木茂が田中たちを上京させるにあたり用意したのが、埼玉県狭山市の、通称“米軍ハウス”。そこにはもうひとり、憧れの本命、細野晴臣が住んでいたからだ。
“細野さんのベースには昔から刺激を受けてました。あの独特のサウンドとビート感。ジェームス・ジェマーソンの日本版みたいっていうかな。いや細野さんは細野さんだから、そういう言い方は失礼だよね”。
田中にとって細野が紡ぐベース・ラインは、はっぴいえんどが気になった理由のひとつでもあった。
“江藤勲さんが初めて、動くようなベースを弾いて注目されたけど、それまでベースはルートだけ弾いていればよかった。そういう流れのうえで細野さんは、さらにきちんとしたライン、つまりメロディを作ってたんです。ボトムだけじゃなくてね。あのベース・ラインは勉強になった。そういう部分での師匠は細野さん。しかも細野さんのノリって独特なんですよ。真似したかったけどできなかった。細かく言うとね、特定の場所によって少し音符が長かったり短かったりっていうところ。リズムのスタッカートのニュアンスにしても、場面場面で違ったりするわけ”。
もうひとつ、細野のジャズ・ベースから出る丸く乾いたサウンドも、憧れた要素のひとつだった。
“細野さんの音質が出せないんですよ。あの独特なジャズ・ベースの“ボンッ”っていう音が。実はこっそり、細野さんのツマミをコピーして真似したことがあってね。でも出なかった。やっぱり指と弾き方のバランスが、人によって違うんだなって思いましたよ。みんなそうだと思います。自分の弾き方に応じた楽器のチューニングがあるんだなって”。
鈴木茂&ハックルバックが一年足らずで解散してしまったあとも田中は狭山に住み続け、いつの間にかティン・パン・アレーのファミリーとなっていた。これも偶然といえば偶然だが、その結果あろうことか、細野のソロ活動において、ベーシストとして声がかかる。
“横浜の中華街でライヴ(1976年)をやることになったときも細野さんが「僕はマリンバを演奏するから、ベースは田中が弾いてよ」だって。そりゃ嬉しかったですよ。でも細野さんの音楽の雰囲気なんて出せるかわからないし、だいたい細野さんがなんでマリンバ叩いて僕がベースを弾くんだろう?って不思議だった。誰かがマリンバ叩いて細野さんがベース弾くって考えるのが普通でしょ? でもまあ細野さん、単純にマリンバ叩きたかったんでしょうね(笑)”。
当時細野がやっていた音楽は、ハックルバックで田中がやっていた音楽とはまったく異なる、各地の民族音楽をごった煮にした末に練り上げられた細野独特のもの。そんな音楽にも田中は、果敢に挑戦した。
“ハックルバックとは違う、細野さんの音楽ですから、全然違うと思って弾かないと細野さんの音楽にならない。だから苦労しましたね。でも細野さん、リハ中ずっと黙ってて特に指示とかしないの。一緒にプレイしてた(鈴木)茂さんのほうがアンプの上に座りながら「そこ違うんだよねー」とか言ってた。あとで茂さん「俺なんであのとき、あんなにハイ・テンションだったんだろう」とか言ってました(笑)”。
ライヴだけでなく田中は、ティン・パン・アレーのアルバムにも参加している。そしてそのリハやライヴのため東京に出向く際には、ご近所のよしみ(?)で、細野の車に乗せてもらっていた。となると興味は俄然、車中での会話となるのだが……。
“半年くらいかな。毎朝「おはようございまーす」「おう」って感じで挨拶して、それで細野さんの車に乗り込むの。リハーサルをクラウン・レコードに行ってやってたのでね。細野さんのこと、いろいろ聞きたかったんですよね。でも僕は、もともと無口なうえに緊張で何も喋れなかったんです。一方、細野さんのほうも無口だから喋らない。結局、車内はエンジンの音しかしないという(笑)。音楽の話をしたかったんだけど、どうしてもできなかった。もったいなかったなあ”。
狭山に住み鈴木茂と活動し、細野晴臣と行動をともにした田中は、はっぴいえんどのもうひとりの顔である大瀧詠一とも懇意になる。大瀧のスタジオは、狭山から約1時間の距離にある福生。そこには狭山以上に多くのミュージシャンが訪れていた。吉田美奈子や山下達郎、大貫妙子、坂本龍一など錚々たる面々だったが、そのなかに同じ大阪出身の伊藤銀次(g)がいた。
伊藤は世間的には、長寿番組のひとつ『笑っていいとも!』のテーマソング「ウキウキWaching」の作曲家として知られるが、大瀧詠一と山下達郎とともに『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(1976年)を制作したりなどの実績を持つ、日本の音楽界の重要人物のひとり。伊藤は田中と意気投合し、自身のソロ・アルバムへの全面的な参加を要請。ドラマーは、自身が率いるバンド、ごまのはえの上原“ユカリ”裕と組ませた。この出会いは、のちに山下達郎のアルバムで注目を浴び、コンビで売れっ子になったリズム体となる。