NOTES

UP

【ニッポンの低音名人extra】 – 田中章弘

  • Text:Koichi Sakaue
  • Photo:Eiji Kikuchi

日本の音楽シーンを支えてきた手練れたちを紹介しているベース・マガジン本誌連載の『ニッポンの低音名人』。発売中のベース・マガジン2021年11月号では、山下達郎「BOMBER」での名演から国内における元祖スラッパーのひとりとしても知られる田中章弘を取り上げている。

ここでは、本誌では紹介しきれなかったエピソードや関係者の証言、田中のルーツや参加作を見ていこう。

ブルース・タウンからシティ・ポップの街へ

 関西はブルースの震源地だった。田中がバンド活動をしていた高校時代(1970年代)から、その下地は形成されていた。ウエスト・ロード・ブルース・バンド、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、憂歌団など関西出身のバンドが、やがて全国的にその名を広めていったことからも証明される。京都・大阪を中心に醸成されてきた“関西ブルース”は関西の音楽シーンにとっての看板であり、東京の音楽シーンに対抗するパワーの根源でもあった。

 田中は、フォーク・シンガーの大塚まさじがマスターを務める、大阪はミナミにある喫茶店ディランを根城に人脈を築き、知り合った林敏明(d)とバンドを結成し、そののち林とともに、ウエスト・ロード・ブルース・バンドと活動をともにしていた佐藤博(k)、そしてのちにソー・バッド・レビューでブルース・シーンの最前線に躍り出る石田長生(g)を加えたバンド、THISを結成。THISは、西岡恭蔵(vo)や大塚まさじらを中心に、ディランの常連ミュージシャンによって制作された『悲しみの街』(オリジナル・ザ・ディラン :1974年)に参加した。田中が20歳のときだった。

 “僕が初めてやったレコーディングがこれ。緊張もしたけど楽しかった。新しいスタジオが大阪にできて、そこで中川イサトさんとかが歌ってね”。

 その後THISは、加川良のアルバム『アウト・オブ・マインド』(1974年)への参加が決定。そしてアルバムを録音中に登場した鈴木茂(g)の誘いにより、石田を除いた田中、佐藤、林の3人は関東に移住し、ハックルバックが結成される。つまり鈴木茂&ハックルバックは、ブルース・ギタリストとして名を馳せた石田長生が、東京のポップス・シーンを代表するギタリスト鈴木茂に入れ替わった(だけの?)バンドと見ることもできる。だがそのサウンドやビートは、鈴木茂の薫陶により大きな変貌を遂げる。

 “茂さん、初対面のときスライド・ギターを弾いてね。パッと音を出した瞬間、ほかのギタリストからは聴いたことのない音を出したんで、その個性にびっくりした。関西は石田もそうだし、山岸潤史さんとか、ブルース系のギタリストが多かったんですよ。それに対して茂さんは全然違うタイプ。でもね、なんかいい感じだったんですよ”。

 結果的に田中は、ブルース・シーンには定住せず、ハックルバックを皮切りに、大瀧詠一やティン・パン・アレー、山下達郎、松任谷由実らのサポートを務め、都会的で洗練されたポップ・ミュージックのボトムを支えることになった。

 “僕はね、この方向でキャリアを重ねられて良かったと思ってます。大阪の友達からは「お前、東京のそんな、山の手ミュージシャンたちと一緒にやりよるんか!」ってボロクソに言われたけど(笑)。大阪のやつらからすると「昔は一緒に飲んで練習しとったのに、大阪のことすっかり忘れて、ドライなやつや」ってなるみたい。僕自身は変わってるつもりはないんですけどね。そういや大阪の友達から電話かかってきたとき「やあ、久しぶりだね」って言ったら、「なんやお前、その『久しぶりだね』って言い草は。東京に魂を売りよって!」とか言ってた(笑)”。

 こうしたやりとりは半分冗談ではあるものの、当時の関西には東京への対抗意識も根強く残っていたようで、先述のようなやりとりも、田中と旧友との間では定番のご挨拶となっていた。標準語と関西弁を相手によって使い分ける田中にとっては、風当たりも強かったのだろうと想像される。

 “大阪人だったら簡単に「そら、ええやん」で終わっちゃう話が、「いいじゃない」とか言うと「どういう風に?」って追求されたりね。音楽的にも、ブルース色の強い大阪と、都市の音楽の東京って感じで、やっぱり違うんですよ。うどんとそば、とか、食べ物の好みも違う。文化ですよね。ブルースだったらお酒を飲んでウワーッ!て暴れられるような空気があるけど、東京のシティ・ポップには、そういう空気はない。だからかな、東京に来たとき少し窮屈な感じがしましたね。でも東京でも優しくて面倒見のいい人たちが多かったし、そんなに変わらないと思う部分も多かった”。

 鈴木茂に誘われなかったら大阪を離れることはなかったという田中。東京への憧れがないわけではなかったが、あくまで遠い目線で眺めるだけで、東京に住んでバイトしながらプロに!などというような熱い思いはさらさらなかった。それほど地元・大阪を愛していた田中だったが、だからといって音楽面まで、地元で盛り上がっていたブルースにどっぷりだったかというと、そうでもなかった模様だ。田中の音楽遍歴を聞けば、それがよくわかる。

音楽的嗜好

 価値観の多様化などにより東京に憧れを持つ若者は、現在はかなり減っている。しかし1960年代の東京は、地方の若者にとっては夢の大都会だった。東京の大学をロケ地に、主役のスポーツマン大学生を加山雄三が演じた映画『若大将シリーズ』は、全国の若者にとって憧れのアイコンとなり大ヒット。田中の音楽遍歴も、この若大将シリーズから始まった。

 “ああいうオシャレな東京の大学に通ってる、なんでもできるスーパースターってのは、まわりにいなかった。みんな泥臭い人ばっかりで(笑)。当時僕は小学生だったけど、ああいうスキッとした人に憧れて、みんなで映画を観に行こうってことになってね。『ハワイの若大将』だったかな、それを観たとき、加山雄三がウクレレを弾いててね。それでウクレレとガット・ギターを買ってもらった。このことが音楽の道に入る最初のきっかけ”。

 音楽に親しみ、出会ったのがビートルズだった。『ミート・ザ・ビートルズ』(1964年)にハマってギターをかき鳴らす日々を送り、中学ではバンドを結成し、ラジオ番組『ヤングタウン』のオーディションにつながっていく(本誌2021年11月号参照)。6歳上の姉の持ち物だったのか、家にあったアルバムからは、デ・スーナーズというフィリピン出身のバンドに興味を持った。

 “『ミート・ザ・ビートルズ』は、「オール・マイ・ラヴィング」とか歌詞を見てギターを弾きながら一緒に歌ってました。ギターは適当で。それからスーナーズのレコードを、ビートルズと並行して聴いてました。姉が買ったかもらったかで、なんか家にあったんです。どんな曲だろう?って針を落としたら「うわ、なんだこれ!」って。彼ら「ホールド・オン」(1966年:サム&デイヴなど)とか洋楽をやってたんです。「こういうの、いいなあ!」って感動して、それでビートルズ以外の洋楽にも目覚めるんです”。

 その後はブリティッシュ・ロック全盛の時代になり、田中たちは御多分に洩れずクリームやレッド・ツェッペリンにハマり、半分オリジナルの“適当”コピー・バンド、ハッシュでの活動に熱中したのは本誌に書いたとおり。だがクリームのジャック・ブルースやレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズらのベース・ラインをコピーするうち、結局それらのベース・ラインは、アメリカのR&Bがルーツになっていることに気づく。中学で聴いたスーナーズが演奏するビートとの共通点も感じ取っていたかもしれない。そこからR&Bへの傾倒が深まっていく。

 “あるとき先輩に「ソウル・ミュージックを聴いてみたら?」って言われたんですよ。それでチャック・レイニーのソロ・アルバム『ザ・チャック・レイニー・コーリション』(1969年)を聴いて、かなり影響を受けました。ツェッペリンとかと違っておもしろいなって。あとはジェームス・ジェマーソンだな。マーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン』(1971年)を聴いて、すごいと思ってコピーしました。みんなコピーしますよね、この曲は。だからチャック・レイニーとジェームス・ジェマーソンが、僕のなかでの2大巨頭ですね”。

 洋楽一辺倒だった当時の田中。しかしあるとき耳に飛び込んできて、どうしても気になる日本のバンドがあった。はっぴいえんどだ。

 “サウンドがほかの日本のバンドと違ってた。フォークではないし、めちゃくちゃロックでもないし。はっぴいえんどっていうバンド名も変わってるなって思ってて、不思議な存在でした。アルバムのジャケットもそう。ロック・バンドだから派手なイメージを、っていうデザインじゃない。ほかと比べてクールでしょ。あのジャケットとあの音がリンクしてる感じ。春一番コンサートで、初めてライヴを観たときもそうだった。サウンドは温かいのにステージはクール。客を煽らないしね。大瀧さんが曲間にボソッと「次は「はいからはくち」やります」とかいうくらい”。

 1960年代後半から1970年代にかけ、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのベーシスト、ラリー・グラハムが、それまでと異なる奏法でベースを鳴らし始める。弦を親指で叩いたり人差指で引っ張り上げたりするこのスラップ奏法は、当時日本ではチョッパー・ベースなどと呼ばれた。丸い音色で後方から楽曲を支えていたベースが、そのアタッキーなサウンドによってサウンドの前面に飛び出てきた。

 “スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』(1971年)はけっこう聴きました。ベーシストだったラリー・グラハムのスラップを聴いて「なんじゃ、こりゃ?」ってぶっ飛んだ。「こんなベースあるんだ!」って。グルーヴ感もすごかったしね。「サンキュー」は、(鈴木)茂さんとも一緒によく聴いた曲。研究したけど映像がないんで音だけ聴いて、どうすればあんな音が出るのかな?って試行錯誤してました。ラリー・グラハムは、グループ脱退後に作ったグラハム・セントラル・ステイションの2ndアルバム、『リリース・ユアセルフ』(1974年)もよく聴いたな”。

 ロックやR&Bが、ジャズとクロスオーバーし始め、音楽が洗練されるとともに、のちに名盤と呼ばれるようなアルバムが次々とリリースされた時期でもあった。

 “ダニー・ハサウェイの『ライヴ!』(1972年)のなかでウィリー・ウィークスがベース・ソロを弾くんです。あのソロが大好きでね。それに、大会場でのライヴじゃなくて、いかにも小さなライヴハウスで演奏してるって感じの雰囲気も好きで”。

 ほかにもチャック・レイニーが名演を披露するクインシー・ジョーンズの『スマックウォーター・ジャック』(1971年)やマリーナ・ショウ『フー・イズ・ジス・ビッチ・エニウェイ』(1975年)、そしてポール・ジャクソンのベースによるハービー・ハンコック『ヘッド・ハンターズ』(1973年)など、田中にとってワクワクするようなアルバムのリリースが相次いだ。そしてすべてのベーシストにとって、バイブルとも言えるアルバムがリリースされる。

 “ジャコ・パストリアスのソロ『ジャコ・パストリアスの肖像』(1976年)を聴いて衝撃を受けました。すごいと思いましたよ。「信じられない!」って”。

 これらのアルバムはみな、本誌で何度も紹介されたことのある名盤ばかり。ベーシストにとってのみならず、広くミュージシャンの間で話題になった重要な作品だ。田中は、そういう意味ではマニアックな路線というより、音楽の進化のなかで生まれた名盤・名演をバランス良く吸収してきたと言える。皆を安心させるグルーヴ感は、そうしたなかで身につけたのかもしれない。

▼ 続きは次ページへ ▼