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    高野諒大(maya ongaku)インタビュー【ルーツ篇】⸺地元の仲間とのジャムが育てた、ベーシストとしての感覚

    • Interview : Shutaro Tsujimoto (Bass Magazine Web)
    • Photo : Hiroki Obara

    2026年8月に2ndアルバム『Nothing Space Music』をリリースした、神奈川県・湘南を拠点とする3人組バンド、maya ongaku。

    2021年に結成され、2023年5月に1stアルバム『Approach to Anima』を発表。アコースティックな響きと電子音、反復するリズムが溶け合うサイケデリックな音楽を奏で、アメリカやヨーロッパでツアーを行なうなど、国内外で支持を集めている。

    その独自のアンサンブルを低音から支えるベーシスト、高野諒大がベース・マガジンWEBに初登場。取材の舞台は、彼らが今年、神奈川県・平塚に完成させた新しいスタジオだ。新たな制作拠点で、3人はどのように音を重ね、最新作を形にしたのか。

    ビートルズやピンク・フロイドとの出会いを含む音楽的なルーツから、音数や音の重なりを吟味したベース・ライン作り、アルバムの制作背景まで、じっくりと話を聞いた。愛用のベースやアンプに加え、リズムマシンやルーパーなど、彼らのライヴを支える機材とその使い方にも迫る。

    就職して、自分は何の仕事をしたいんだろう”と、自分のことを考えるなかで音楽が入ってきた。

     浪人していたときに、ヴォーカルの努(園田努)も一緒に浪人していて。彼は当時から洋楽や昔の60年代の音楽が好きだったんですけど、僕は高校のときまで、そういう音楽を聴いたことがなかったんです。でも勉強中によく音楽は聴いていたので、“新しい音楽を知りたいな”と思って、CDを貸してもらったり、一緒にTSUTAYAに借りに行ったりして。その頃にビートルズとかを聴き始めました。

     そのうち“バンドをやりたいね”というタイミングがあったんですけど、僕は楽器を一度も弾いたことがなくて。努は家にアコギがあって弾いていたので、使っていないアコギを借りて、受験期間中に半年から1年くらい練習しました。コードをひと通り弾けるようにして、受験が終わったタイミングで、友達にお金を借りてベースを買ったんです。ヘフナーの一番安いモデルで、当時は5万円くらいでしたね。大学に入る前に努と免許合宿へ行ったんですけど、買ったベースも持っていって。彼はギターを持ってきて、合宿中に一緒に練習していました。

     普通にポップスを聴いていて、ミスチルとかがすごく好きでした。高校にはスケボーが好きなやつらもいて、当時はTHE OTOGIBANASHI’Sとかが出てきたタイミングだったんです。地元の先輩にはin-dくんとかもいて、僕が直接知っていたわけではないんですけど、友達から“こういう人がいるよ”と聞いたりはしていました。ただ、それがすごく刺さって、音楽やそういうカルチャーにのめり込む、ということはなくて。むしろ受験をして、“このまま大学に行って、就職して、自分は何の仕事をしたいんだろう”と、自分のことを考えるなかで音楽が入ってきた感じです。そういうことに悩んで初めて、それまで聴いてこなかった音楽が、自分の琴線に触れるようになったんです。

     最初に、全アルバムを一通り聴いたんですよ。もともと親も好きだったので、“この曲は知っている”という風に、断片的には知っていたんですけど。“だったら一度、全アルバムを聴いてみたら?”と、努に“これが全部だから”と教えてもらって、ファーストから順番に聴きました。それで“何が一番好きだった?”という話をして。最初は『Magical Mystery Tour』(1967年)が良かった、みたいな話をしていたんですけど、そこからどんどんハマるにつれて、好きなものは変わっていきましたね。

     そうですね。それまでは友達とカラオケに行って歌うようなJ-POPしか聴いてこなかったので、まったく違うバックグラウンドの音楽を初めて聴いたのがビートルズだったんです。同時にローリング・ストーンズとかも聴いて、ブルースというジャンルを知って。そこからクリームとかにも、めちゃめちゃハマっていましたね。同じ頃、江ノ島にあるACE GENERAL STOREという古着屋さんにも行っていて。レコードがたくさんあって、そこのお兄さんがすごくブルース好きだったんです。その人が『カラフル・クリーム(原題:Disraeli Gears)』(1967年)のTシャツを着ていて、それがきっかけでクリームを教えてもらいました。

     最初はベースの音に惹かれたというより、努がすでにギターをやっていたからですね。“じゃあ次の楽器は?”となったときに、“ポール・マッカートニーがベースだから、ベースなのかな”という感じでした。

     ビートルズをコピーしていました。人生で初めてやったライヴはコピーだけで、「Come Together」をみんなでやって。あとは、当時から(maya ongaku所属の)Bayon Productionのアーティストがすごく好きだったので、Yogee New Wavesの「CLIMAX NIGHT」と、なぜかハービー・ハンコックの「Chameleon」をやりました。“「Chameleon」でジャムってみよう”みたいな感じで、僕はずっとリフを弾いて、ドラムと合わせて。

     そのあたりですね。でもライヴをやったのは、もう少し後だったかな。

     教えてもらってましたね。ただ、直接“ベースはこうやって弾くんだよ”、“こうやって練習するんだよ”と教わるというより、“じゃあ、コードはこれで”という感じで、みんなでそれぞれ楽器を弾いて、それに合わせて弾いている感じでした。当時はブルースにハマっていたこともあって、実際に演奏するときも、基本の3コードがわかっていれば、あとは自由に自分で演奏する。それが自分にとっての練習だったんです。ワンコードのときもありましたし。ベースを始めたのも遅いほうだと思うので、技術的なことというより、実際に演奏することで練習していた感じですかね。

     先輩たちに“このコードのときは、こういうスケールが使えるよ”と教わったり、自分たちで勉強したり。ビートルズのベース・ラインをコピーするときにも、コード進行と一緒に調べて、“だからこういうフレーズを弾いているんだ”と学んでいました。いろいろなアイディアや音楽理論が詰まっていたので、そういうなかで勉強していたんです。

    ロジャー・ウォーターズ(ピンク・フロイド)は、楽器を始めたばかりの自分にも“できそうで、かっこいい”と思えた。

     そうですね。まわりがみんなビートルズが好きで、ブルースのジャムもやっているなかで、ピンク・フロイドはその両方の要素を持ち合わせているバンドという感じがして。みんなで同じ時期に、すごくハマったんです。「Echoes」(1971年)の後半のセクションとかは、めちゃめちゃ衝撃的でした。それこそ技術的な話ではなくて、グルーヴやバンドのアンサンブルのなかでのかっこよさ。ベースは“本当に同じフレーズしかやらない”みたいなところがすごくかっこよかった。今もかっこいいと思うんですけど、当時はすごく新鮮でした。

     ロジャー・ウォーターズは、いわゆるベースがうまいタイプのベーシストではないと思うんです。細野晴臣さんやポール・マッカートニー、フィル・レッシュは、みんなすごくうまくて、そのうえでかっこいいと思っていたんですけど。ロジャー・ウォーターズが下手だと言っているわけではなくて、楽器を始めたばかりの自分にも“できそうで、かっこいい”と思えたんですよね。それに、彼が楽曲の作曲に携わっている部分も大きいと思うんですけど、ベースという楽器が、楽曲のすごく大きな部分で前に出ているというのも大きかったですね。

     きっかけとしては、maya ongakuとしてライヴ活動をすることになったときに、ドラマーが病気になってしまったことが大きかったです。サポートのドラマーを入れたり、さらにギターをもうひとり加えて、5人でライヴをしたりもしていたんですけど、メンバーとしてはどうも良い感じにならなくて。相談するなかで“3人でやろう”という話になったんです。3人でアルバムの曲や自分たちのライヴをどう成立させるか。そのための手段として、最初にリズムマシンを導入したのがきっかけでした。

     今も使ってるローランドのTRシリーズで、最初はTR-6Sという小さいものを使っていました。それと、BOSSのRC-10Rというルーパーですね。たぶん当時は出たばかりで、MIDIクロックで同期できるルーパー。それぞれが使うルーパーとTR-6Sが、最初にみんなで買った機材でした。

     リズムマシンを導入する時点では、僕は電子音楽をあまり聴いてこなかったんです。それこそ、ピンク・フロイドの『狂気』(1973年)の「On The Run」とか。たぶんシンセ・ベースを使っていたりすると思うんですけど、自分のなかのストックにあったのは、そういう音楽でした。あとは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリズムマシンの使い方も大好きでした。でも、それが自分たちの音楽の参考になるかというと、あまりわからなくて。何かの影響や参考にしたものがあって使い始めたというより、自分たちの楽曲の空気感をリズムマシンで表現する、というやり方に近かったと思います。

     昨年の海外公演に限らず、ヨーロッパとアメリカでは、ライヴをしたその場での反応がすごくダイレクトに返ってくるんです。ヨーロッパとアメリカでも少し違うんですけど。今でこそ日本でも、ライヴで反応してくれる人や踊ってくれる人が少しずつ増えていて、ありがたいんですが、去年や一昨年は、海外でその反応の大きさを特に感じました。

     自分たちの音楽はインストの要素もあるし曲の尺が長かったりもするんですけど、そういう音楽をやり続けていて、ちゃんと聴いて、踊ってくれる人たちがいるのが嬉しかったんです。音楽を仕事として続けるために“何か別の音楽をやらなければいけない”と思わずに、自分たちの好きなことをやって、受け入れてくれる人たちがいる。それを感じられるのは良いなと思いましたね。

     あの企画に関しては、“ambient room”という企画ですし、主催しているBias & Relaxの人たちに甘えて、というところがありました。普段はああいうライヴをしないんですよ。アメリカでもイギリスでも。そのときのみんなのフィーリングで合わせられるような、一番即興的な形でやっていました。アメリカでは、もっと普通に、ちゃんと曲をやっていたんです。むしろ毎日、同じライヴをしていたので。

     たぶん4月にアメリカへツアーに行って、毎日同じセットでライヴをしていて、ちょっとそれに飽きたタイミングだったんですよね。日本に帰ってきて初めてのライヴが、5月の“ambient room”だったと思うので、“全然やっていないことをやろう”という感じでした。

     実際に録り始めたのは2026年の4月からなんです。その前にメンバー各自がライヴ活動を一時休止して、行きたい場所へ旅に出ていました。抄英(池田抄英/k,sax,fl)はブラジルへ2月から1ヵ月間、僕はインドへ2週間ほど、努もバリへ1〜2週間ほど滞在していました。時期は少しずれていたのですが、アルバムを作るスケジュールが決まっているなかで……(次の記事に続く)

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