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【職人探訪】第1回 – 楽器テック:永野治[MOBY DICK]前篇
- Text:Zine Hagihara
自転車いじりに目覚めた、冒険好きな少年時代
永野は東京都江戸川区に生まれ、千葉県習志野市で育つ。黄色い電車が通る線路沿いの下町、平井で両親は家を建て、津田沼を地元とした。
“あまりいい子じゃなかったですね(笑)。言うことを聞かなかったみたいです。運動が好きで近所の子供たちと野球をしたりしていましたけど、どちらかといえばプラモデルを作ったりとか工作系が好きなタイプでした”。
小学校に入ると、自転車いじりにハマった永野少年。パーツを交換してみたり改造してみたり、手先を使うのが好きな凝り性だったという。そして中学生になると、自転車に荷物を積んで旅行をするようになった。
“夏休みや土日に何泊か野宿やキャンプみたいなことをしていました。で、行った先のユース・ホステルに泊まると、当時は宿舎にアコギが置いてあって、誰でも歌えたんですよ、オープンマイクって言うんですかね。ゴールデン・ウィーク期だと歌える人が集まって盛り上がっていて、小学生の頃から「歌がうまい」ってよく褒められていたこともあって、それに混じって僕も歌っていました。そうやってお気に入りの自転車でいつも旅をするのが楽しくて。だから、今の仕事なんか最高ですよ。メカ(楽器)をいじって旅(ライヴ・ツアー)ができるんですからね。しかも世界中ですよ!”。
冒険好きで活発な少年であった中学生の永野は高校に入り、“自転車”と“音楽”というふたつの岐路に立つことになる。
音楽の大きな渦に飲み込まれた高校時代
進路選択の第一歩である中学時代。永野少年は自転車を作る職人となってその本場であるイタリアに渡るために、溶接などの必要資格を得る目的で工業高校の機械科への入学を志望した。
“工業高校にかよったことは僕の人生のプラスになりました。楽器を「メカ」として見ることができるんです。弾き手にとっては「楽器」なんですが、技術者にとってはドラムもギターもベースもメカニカルなものなんですよね”。
高校では自転車部に入り、自転車職人としての道を着々と歩むハズだった永野だが、高校で知り合った友達と遊びでバンドを組むことに。当時はハードロックやクラシック・ロックの全盛時代であり、国内ではアナーキーやRCサクセションなどのパンク系も興隆しており、そういった好きな流行り音楽を持ち寄っては演奏していたという。中学時代から旅先で歌ってきた永野はここでもヴォーカルを担当。そしてライヴハウスに出演するようになるとアイアン・メイデンやジューダス・プリーストなどのテイストを用いたヘヴィメタルを演奏するようになる。実力は申し分なく、当時盛んだったバンド・コンテストで賞を貰うこともあった。だが、気づいたら自転車をいじることも減っていき、ついには自転車部を退部してしまう。
“音楽の大きな渦に飲み込まれちゃったんだと思うんです。一応、溶接だのなんだのっていう資格はちゃんと取りましたけど、結局は卒業後も音楽専門学校の音響技術科に入学しました”。
この頃になると、ロックにジャズやプログレッシヴの要素が混じった中期以降のキング・クリムゾンのような音楽を好んだという永野は、自身の偏った趣向ではバンドで成功することの難しさに気づく。そして、音楽に関わる職業に携わりたい、機械的なものを扱いたいという思いで音響技術科に入学した。
“でも、あまり登校しなかったんですけどね”。