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【職人探訪】第1回 – 楽器テック:永野治[MOBY DICK]前篇

  • Text:Zine Hagihara

日銭を稼ぎ、裏街道を突っ走る

 永野は、音響科の専門学校に入学するも次第に登校数は減っていき、たまたま知り合ったドラマーに誘われてビアガーデンやライヴ・バーなどで演奏するいわゆる“ハコバン”として、日銭を稼ぎながら演奏に興じていた。

“ものすごいたくさんの曲を覚えて、みんなで譜面や歌詞をみながらライヴ演奏するっていうことをアルバイト感覚でやっていました。そこからつながって、お店やスーパーなんかで流れているような有名曲のアレンジ・バージョン……海賊版みたいなものをプロの人たちに混じって夜な夜なレコーディングするいわゆる「ショクナイ」という仕事もし始めました。子供の頃にトランペットを吹いていて、なんとなく譜面を見るとパパッと理解できたので、ひと晩で10曲以上録ることもあったんですけど、その譜面を全部書いて各パートの方に渡していたんですよね”。

 ハコバンとショクナイでお金を稼ぎ、さらには高校の頃より続けていたバンドでの活動もあったため、専門学校に登校する時間はなかった。徐々に授業の内容にもついていけなくなり、意欲はなくなっていく。そして、2年ほどで退学してしまった。

“不本意ながら、音楽である程度のお金を得るようになっちゃったんですよ、ガキのクセに(笑)。本当はバンドで成功したいクセに、うまい人たちとやってお金になるもんだから、そっちがメインになっていくわけです。でも、パンク心で言うと、ショクナイをやっている人はクソな人種だと思っていたんですよ。どうでもいい音楽を夜な夜な作って、それと一緒になってお金を貰ってヘラヘラしている自分が、心のどこかで苦しかったんですよね。一番なりたくない人間になっちゃった”。

 永野は人生の目標に行き詰まり、高校より続けていたバンドに不義理をして別れるほどに焦っていた。自分の歩んでいる道はまさに裏街道。だが、自分自身への誇りを失った彼に、とてつもない衝撃が襲いかかる。

モラトリアム期をぶっ壊したRED WARRIORS

“決定的な瞬間があったんです。あれは今でも忘れられない”。

 専門学校の同級生に、結成当初だったREBECCAのスタッフがいた。手伝いを頼まれて何度か現場に駆り出された永野は、わからないなりに自身ができる作業を行ない、メンバーとも顔見知りになった。REBECCAがデビューを果たしてしばらくすると、リーダーであった木暮武彦(g)とドラマーの小沼達也がディレクターと意見が合わず脱退し、新たなバンドを結成する。

“共通の知り合いから「あいつらのライヴがあるから行こうぜ」と誘われて、当時のShibuya eggmanまで観にいったんです。もう、かなり衝撃を受けちゃって。これから売り出されて有名になるバンドを辞めて、自分たちが思うロックをやろうと新たにスタートする彼らを観て、「俺、なにやってんだろ……」って呆然としてしまいました。ライヴのあと、楽屋で少し喋っただけなんですけど、1週間後くらいにドラムのコンマくんから電話がかかってきて、「今、俺らはスタッフもいないし、今度は前橋でライヴをやるんだけど、1日だけでもいいから手伝ってくれない?」と”。

 ライヴ現場のスタッフ経験はわずかしかない永野であったが、自身と同じくヴォーカルを担当していたDIAMOND☆YUKAIの歌の凄みに圧倒されたこともあって、小沼のラブコールに“とりあえず行くよ”と返事をした。

“1日だけ手伝いにいく予定が、結局は1989年の日本武道館での解散公演まで、すべての現場を担当したんですよねぇ”。

 ついに始まった永野のテック人生。それまでヴォーカルを専任していた彼が、“自転車いじり”と“工業高校”で培った技術を駆使して、初めて楽器と真っ向から向き合う。ローディやテックといった楽器専門の職業が確立されていなかった時代でどのような試行錯誤を重ねていったのか。後篇に続く。

VOICE OF BASSIST – 02

小川キヨシ(RED WARRIORS)

——永野治さんのテックとしての技術力をどのように思いますか?

 もう何十年もの付き合いなのでお互い切磋琢磨してきたうえでの信頼感は計り知れないものがあります。特に音作りにおいては新しいアプローチを常に提案してもらっています。今の私のように緊急招集的な現場では自分の好みを的確に理解して音に反映してもらっています。特にファズ系エフェクトのチョイスは重要なので本当に凄いです。

——永野さんに関する印象的なエピソードを聞かせてください。

 はっはっは……昔は長い間ツアーに出ていてお互いいろいろあったよね(笑)。そのなかで話せることは……解散が決まっていてイギリスの郊外での長い長いレコーデイングが終わり、ロンドンの最後の夜に永野さんが飲んで飲んでピカデリー・サーカスあたりで暴れたとか?(笑) 当時のツアー・スタッフはメンバーよりすごかったとか(笑)。そうそう、初めてのレコーデイングの最終日に私と揉めてね、永野さんが帰っちゃって電話口で泣いて戻ってもらったとか。本当にいろいろあったし、今思えば素敵な思い出がたくさんある。歳もほぼ同じだし私がローディ出なのですごく近い存在でしたね。

——約30年もの間、永野さんがモビーディックの代表として音楽業界を支えてこれた理由はなんだと思いますか?

 責任感と愛じゃないかな。

オガワ・キヨシ●1964年4月25日生まれ。1985年にRED WARRIORSを結成し、翌年にデビュー。ストレートなブルース・ロックでバンド・シーンの話題をさらい、1988年に日本武道館公演と西武球場公演を行なうも翌年に突然解散。その後、1996年に復活を果たし、断続的にリリースとライヴを行なうも2013年にまた活動を休止する。結成30周年となる2015年に再び復活を果たし、現在も活動を続けている。小川は現在、北海道にて宿泊施設“釧路湿原とうろの宿”を営んでいる。
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釧路湿原とうろの宿

PROFILE
ながの・おさむ●2月17日生まれ、東京都江戸川区出身、千葉県習志野市育ち。高校時代にバンドを始め、ヴォーカルを担当する。その後、音楽専門学校の音響科に入学し、同級生に誘われてREBECCAや内田裕也などの現場を手伝う。そして、アマチュア時代のRED WARRIORSと出会い、テックとしての仕事を本格的に始める。その頃に交流のあったローディやテックとともに株式会社モビーディックを立ち上げ、1991年3月の設立以来、音楽シーンのトップ・アーティストを支え続ける。これまでにサザン・オールスターズ、FLOW、Pay money To my Pain、The BONEZ、SiM、THE PRIVATESなど、多くのバンドのサウンドを作ってきた。

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