NOTES

ベース・マガジン本誌にて好評連載中の『ニッポンの低音名人』。毎回、日本の音楽シーンを支えてきた手練れたちの驚愕エピソードをお伝えしているが、2020年7月18日発売のベース・マガジン8月号ではバカボン鈴木が登場し、青春時代の“お坊さんになるための修行”や、20歳でベースを始めてから導かれるようにプロになった軌跡まで、その異色の経歴を大ヴォリュームで語ってくれている。

ここでは、本誌では紹介しきれなかったエピソードや関係者の証言、バカボン鈴木のルーツや参加作を見ていこう。

20歳でベースを始めて一流に!

 ロックで音楽に目覚め、その後パンク、ニュー・ウェイヴ、ジャズなど、今では文字どおりジャンルレスな活躍ぶりを見せるバカボン鈴木。おもしろいのは、何と言っても、楽器を始めたのが20歳と、かなり遅かったことだ。現在活躍するミュージシャンは、ほとんどが遅くとも中高生で音楽に目覚め、楽器を始めている。幼少期からピアノなどを習っていた者も珍しくない。そんななかでバカボンがミュージシャンになれた要因はどこにあるのだろう。

“バンドは楽しいからやってたけど、頑張ってプロになろうとか、そういう風に考えたことは一度もなかった。もちろん頭の片隅で、音楽で食えたらいいなって希望はあったけど、絶対に無理だろうというほうが強かった”。

 そうは言っても、上達のスピードがおそろしく速く、仲間内でもかなり目立っていたのだろう。でないと、その後の活躍ぶりを納得できない。

“いや、学生時代は僕なんかよりぜんぜんウマい先輩がいたし。なんでプロにならなかったんだろうって思う人がけっこういましたよ”。

結局この頃の話からは、目立った痕跡は発見できなかった。だが幼少時まで遡って話を聞くと、両親の影響がそこはかとなく感じられる。

音楽好きの血と反骨精神

 父親の酒癖の悪さに翻弄されていた少年時代、音楽になど見向きもしなかったバカボンだったが、その父親には音楽の素養があった。

“親父は昔ヴァイオリンを弾いてたらしくて、弾いてる写真を見たことがある。実家がやってた工場で、旋盤をいじってたら指先を切っちゃったらしくて、それでヴァイオリンを辞めたらしい。でもそのあと、ハーモニカを吹いたりしてたな。テレビでやってた『駅馬車』っていう西部劇の主題歌とかをね。音楽が好きだったみたい”。

 バカボンは、一時期パンクに傾倒。パンクが持つ反骨精神に、大いなる共感を抱いていた。その反骨精神や負けず嫌いのスピリットは、もしかすると母親から譲り受けたのかもしれない。

“酒癖の悪い親父に対して、母親は一滴も飲まない人でね。ただ気が強かった。顔を殴られても、まったくひるまない。酔っ払いって相手がひるまなかったら逆上するでしょ? 親父は逆上して、裸足で表に飛び出しちゃうの。それで小一時間もすると、近所に住んでる親方に連れられて、おとなしくなって帰ってくるという。その繰り返し(笑)。だから母親が僕たちを守ってくれてた”。

 さらに小学校時代、仏像を彫っていたという手先の器用さは、エレキ・ベースだけでなくウッド・ベースやスティックまで自在に操るバカボンの柔軟さを考えると、少なからず寄与していた可能性は否定できない。

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