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【ニッポンの低音名人extra】 – 岡沢茂

  • Text:Koichi Sakaue
  • Photo:Eiji Kikuchi

ベース・マガジン本誌にて好評連載中の『ニッポンの低音名人』では、毎回、日本の音楽シーンを支えてきた手練れたちの驚愕エピソードをお伝えしている。

現在発売中の2020年11月号では岡沢茂が登場。

ここでは、本誌では紹介しきれなかったエピソードや関係者の証言、岡沢のルーツや参加作を見ていこう。

憧れていた“空気感”が身近に

 高校時代、兄・章に教えてもらい夢中になったダニー・ハサウェイの『ライヴ!』。ウィリー・ウイークスの重くグルーヴするベースにはもちろんシビれたが、小さなジャズ・クラブで演奏されている空気感が伝わってくるような、ミュージシャンと観客が近い距離にあることがリアルに感じられる歓声や拍手の響きも茂は気に入っていた。それはジャケットに写っている薄暗いクラブの雰囲気と相まって、大人の世界に憧れる高校生、岡沢茂の好奇心を刺激し続けた。

 そんなある日、茂は兄の演奏を観るために行った新宿のピットインで、憧れだった『ライヴ!』の世界が身近に存在していたことを肌で知る。またピットインよりガランとした歌舞伎町のタローでも同様の空気が流れており茂をワクワクさせた。70年代のピットインとタローは、新宿の2大ジャズ・クラブとして知られており、そこに出演している兄が誇らしかった。

“ピットインに入った途端「うわっ、ダニー・ハサウェイの『ライヴ!』の雰囲気そのままだ!」って感激しました”。

 そんな憧れの聖地ピットインとタローに茂は、渡辺香津美グループに参加したことにより、十代の若さで出演を果たす。とはいえジャズ・クラブは当時から文化の発信地。ジャズの素養がなかった茂にとっては、いささか敷居が高かった。香津美がいきなり弾き始めるスタンダードを知らなかったからだ。

“香津美さんがいきなりジャズのスタンダードをやり始めたとき、何がなんだかわからなくてね。兄貴が(渡辺)貞夫さんと一緒にやったときも同じだったみたいだけど。香津美さん、曲名だけ言っていきなり「ワン、ツー」って。「えっ、何なに? わかんないよー!」って、もうその連続(笑)。スタンダード曲が載ってる通称“センイチ”(スタンダードを網羅した、ジャズメン必携の海賊版曲集。実際には1001曲も入っていなかったという証言も)ってのがあって、「お前センイチ知らないの?」って言われて「センイチ って誰のことだ?」とか思ってました(笑)”。

 ちなみに当時のジャズ・クラブはルールにこだわる店も多く、ウッド・ベースでないと難色を示す頑固な客や店主も少なくなかった。

“店によってはエレキ・ベースを出演させないってとこもあってね。「ウチはウッド・ベースじゃないとダメなんだよね。悪いけど」とか。ウッド・ベースを弾けない僕のせいで出演できないって、ちょっと肩身が狭かったけど、香津美さんは「じゃ、やらない。帰ろう」って、僕を守ってくれました。「兄貴くらいの腕でもダメなのかな?」って思ったりもしたけど、そういう問題じゃなくてね。ベース・アンプなんて置いてないから。それで店を出て、みんなで酒を飲んだりしてました”。

たかが譜面、されど譜面

 中学時代、学生運動のかたわらでギターを始めた茂にとって、譜面は無縁だった。高校に入り、兄・章から名演の数々を教えてもらったときも譜面は一切登場していなかったので、コード譜さえ読めれば大丈夫と思っていた。渡辺香津美グループでは譜面を使っていたものの、コードが書かれていたので演奏に支障はなかった。しかし初めて行ったスタジオ・セッションで、コードの書かれていないベース譜を渡された瞬間、茂は現実を知る。

“このとき、ぜんぜん弾けなくて途中で帰されて(2020年11月号参照)、泣くほど悔しかったから、少しずつ勉強しました。周囲に「これ、どうやって弾くの?」とか、いろいろ聞きながらね。だから仕事しながら身につけていったって感じかな。僕の場合ね、譜面は絵ヅラで覚えるっていうのかな。オタマジャクシの並びを見て「こんな感じかな?」って弾いてみて「おお、合ってた、合ってた!」みたいな(笑)。実戦でやったほうがえますね。

 譜面で一番アセったのは前田(憲男/arr)さんの譜面。前田さんがアレンジやってる仕事ってわかった途端、もう怖くて怖くて。当然スコアやマスター譜じゃなくてパート譜(ベース譜)で、もちろんコードなんて書いてなくてオタマジャクシだけ。しかも譜面が真っ黒に書き込まれてる。「うわー、こんなの絶対無理!」って感じで「すいません、譜面でちょっと時間がかかってて」とか言っても、前田さんは聞いてくれないの。「じゃ、やるよー。ワン、ツー」って。でね、さらに怖いのは間違えても指摘されないんだよ。「じゃ、あとはやっといて。よろしくー」とか言って帰っちゃうの(笑)。それで、しょうがないから「すみません、全部差し替えでもう1回お願いします」って頼んで弾き直すという。

 ただ、それだけにサウンドの構築はすごい。全部のパートがそろってひとつのアレンジになってるから、譜面のとおり弾かないと完成しないんです。それがわかってるもんだから余計に怖い。だからね、前田さんの仕事ってわかってたら早めに行って、自分の譜面以外に「キーボードの譜面ある?」って聞いて、そこに書いてあるコードを書き写すようにしてました(笑)”。

メイン・ベースは、西條八兄が茂のために製作したオリジナル5弦Saijoベース。実は西條は現在のピックアップ/コントロール配線とは違う仕様を想定しており、あとから調整をしようとしたが、試奏して現状の音を気に入っていた茂は、調整せずそのままにしてもらった。

膨大な仕事で、覚えているのは?

 厳しい現場での修行を経て譜面で困ることがなくなった茂は、またたく間に売れっ子ベーシストとなる。午前中から深夜までと、茂のスケジュールはいっぱいだった。だが本人はそのほとんどを覚えていない。ベースのレコーディングは最初に行なわれるため、完成形が見えないということもあるのかもしれない。そんななかでも印象に残っているセッションは、というと。

“渡辺真知子さんは、レコーディングもツアーもやったから覚えてる。ドラムは田中清司さんだったな。「かもめが翔んだ日」(1978年)とか、その頃のアルバムにも参加しました。真知子さんは僕の1級上でね、「岡沢くーん」とか呼んでくれて、すごい気さくな人。あと覚えてるのは(西城)秀樹さんの「ホップ・ステップ・ジャンプ」(1979年)かな。ただこれね、水谷(公生/g)さんアレンジで確かに弾いたはずなんだけど、あとでクレジット見たらミッチーさん(長岡道夫/b)になってたんです。「YMCA」も、あのオクターヴのフレーズを弾いた記憶があるんだけど、これもミッチーさん(笑)。クレジットを間違えてるのかなって思ったけど、あとから差し替えられたのかもしれないし、実際よくわからないです(笑)”。

 これは当の長岡道夫も語っていたが、西城秀樹の「YMCA」などは、シングル以外にもいくつか別バージョンがレコーディングされたらしい。だからそのいずれかを茂が、別のバージョンを長岡道夫が弾いていたのだろうと推測できる。

“あとはね、23歳でCHAGE and ASKA の『風舞』(1980年)をやったのは覚えてるんだけど、ほかはあんまり。あの頃スタジオ・バブルだったからなあ。人から「この曲やってるよね?」とか言われるんだけど覚えてない。あ、ユーミン(荒井由実)の曲でマンタ(松任谷正隆)さんのアレンジによる石川ひとみの「まちぶせ」(1981年)は僕が弾いてます。たまたまテレビの歌番組で、ハウスバンドみたいにその日の歌手のバックを全部僕たちがやるっていうことになって、それで本番の前日に参考音源をもらったんです。それで「まちぶせ」を聴いたら自分のフレーズがいっぱい入っててね「あ、これ俺だ」って(笑)”。

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