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追悼 – フランシス・“ロッコ”・プレスティア(タワー・オブ・パワー)

  • Text:Daisuke Ito
  • Interview:Kazuya Kitamura(Bass Magazine 1991 SEP), Fumi Koyasu(Bass Magazine 1997 NOV)

9月末、ベース界にとって悲しい知らせが飛び込んできた。タワー・オブ・パワーのベーシスト、フランシス・“ロッコ”・プレスティアが逝去した。69歳であった。世界最高峰のブラス・ファンク・バンドと称されるタワー・オブ・パワーにおいて、ドラマーのデヴィッド・ガリバルディとともに“黄金のリズム・セクション”として活躍した彼は、その独自のプレイ・スタイルで多くのフォロワーを生んできた。本誌にもたびたび登場してくれ、優しく紳士的にインタビューに答える姿が印象的であった。ここでは、彼の功績を振り返るとともに、過去の本誌インタビューを再掲載することで、彼へのはなむけとしたい。

BIOGRAPHY
━━ファンク・ベースの開拓者、その軌跡

 多くのベーシストがフレージングやサウンドで個性を追求するなか、フランシス・“ロッコ”・プレスティアが頭抜きん出ているのは、自らのサウンドを求めるがゆえに、押弦していない左手の指を弦にかぶせることでミュートして、音価をコントロールするという独自の奏法を生み出した点にある。その意味でロッコは、スラップを編みだしたラリー・グラハムに匹敵する独自性を持ったプレイヤーだと言えるだろう。オールバックの髪形に端正な顔立ち、ロック・ミュージシャンを彷彿させる出で立ちで、ベースを手に持ったらファンキーなスーパー・プレイを奏でるというギャップで、多くの人を魅了してきた。そして、彼ほど本誌と長年にわたって親密な関係性を保っていたプレイヤーはそういない。本誌創刊以来、幾度となく誌面に登場し、口数は少ないが優しくてユーモアに溢れたインタビューをきっかけに、若い世代でもロッコの名を知り、プレイの奥深さに触れた読者は多いはずだ。本誌にとっても馴染み深いレジェンドの軌跡を、今一度振り返りたい。

本誌1995年9月号では表紙を飾った。アルバム『ソウルド・アウト』の制作裏話が痛快で、アルバム曲の奏法分析やTOPの歴史の総括なども掲載された。

ヘタッピ・ギタリストからベースに転身
タワー・オブ・パワーを結成

 イタリア人の父親とデンマーク人の母親のもと、1951年3月7日に米国カリフォルニア州ソノラに生を受けたフランシス・ロッコ・プレスティア・ジュニア。14歳でギターをはじめ、その後にタワー・オブ・パワー(TOP)の前身バンド(モータウンズ)に加入する。だが、そのギターの腕はTOPのエミリオ・カスティーヨ(ts)曰く“聴いたことがないくらいにヘタ”だったようで、TOPに音楽の知識を教えたテリー・サンダースは、ロッコにベースへ転向するように促した。ロッコはもともとロック好きだったが、次第にソウル・ミュージックへと興味が移っていく。彼が影響を受けたのはジェームス・ジェマーソン、同じ白人のR&B系ベーシストであるドナルド・“ダック”・ダン。彼らの演奏を研究し、自身の演奏へ骨肉化していった。

 タワー・オブ・パワー(以下TOP)はサンフランシスコ・ベイエリアの都市オークランドにて、1968年に結成された。ベイエリアではすでにスライ&ザ・ファミリー・ストーンが活躍しており、その影響も大きかったようだ。リーダーのエミリオ・カスティーヨが中心となったTOPはホーン・セクションを主体としたバンドだが、ロッコとデヴィッド・ガリバルディ(d)のリズム・セクションは、それに匹敵する個性を持つことになる。ガリバルディはTOP加入時より、バンドの個性をロッコが担っていると認識していた。“最初に合わせたときから息がぴったり合った”とロッコが語っているが、その後、ふたりはファンク・グルーヴの金字塔として多くの名演を残していく。

 TOPのデビュー作は『イースト・ベイ・グリース』(East Bay Grease)で、著名なコンサート会場フィルモアのオーナー、ビル・グラハムが主宰するレーベル(San Francisco Records)より1970年に発売された。冒頭曲「ノック・ユアセルフ・アウト」を聴くと、当時からガリバルディとロッコのピタっと張りついた強靱なグルーヴは、すでに完成されていることに驚かされる。

メジャー・デビューを果たし、大ヒットを記録
確立する黄金のリズム・セクション

 1960年代末のサンフランシスコと言えば、ヒッピー・ムーブメント一色だったが、その衰退とともにTOPの洗練されたファンク・サウンドに注目が集まるようになる。1973年にはメジャー・デビュー作『タワー・オブ・パワー』を発表し、名曲「ホワット・イズ・ヒップ」に加えてゴスペル調バラードの「つらい別れ」(So Very Hard To Go)が大ヒットを記録し、同作はゴールド・ディスクを獲得した。TOPを代表するインストゥルメンタル・ナンバーの「スクウィブ・ケイクス」などの名曲が揃った『バック・トゥ・オークランド』(1974年)、バラード「アイ・スタンド・ヒア」やファンク・ナンバー「エボニー・ジャム」などを収録した『イン・ザ・スロット』(1975年)と、立て続けに素晴らしい内容の作品をリリース。年間で100本以上にわたるライヴをこなし、歯切れの良いホーン、ロッコとガリバルディのグルーヴは、常に16分のフィールを持ち、タイトかつ前へと推進していくTOPサウンドを確立した。

 だがバンドには成功とともにトラブルがつきまとう。もともとナイトクラブのシーンで支持を得たバンドということもあり、ドラッグがバンドに蔓延った。なかでもロッコは酷く、1977年にはバンドから解雇されてしまう。その後、ニュー・ウェイヴやパンクといった音楽の台頭とともに、ファンクの人気も下火になるが、ホーン・セクションだけはヒューイ&ルイスの作品に参加し、セッションの仕事を増やしていく。その一方、ロッコはブルースやトップ40バンドの仕事をしていたが、1984年に無事にバンドへと復帰した。

病を乗り越え、精力的に活動
老いてなおステージに立っていた

 1990年代に入るとヒップホップの人気とともに、そのサンプリング・ソースでもあったファンク・バンドに再び注目が集まるようになった。ライヴ盤『Soul Vaccination:Live』(1999年)では、TOPを離脱していたガリバルディもバンドに復帰し、強力なグルーヴを聴かせてくれる。バンド内の事情としては、エミリオは“80年代末にドラッグ問題を絶った”と言うが、ロッコにはアルコールの問題が残っていた。2001年頃から肝臓に不調をきたし、2004年には肝移植の手術を受けている。その後、TOPは再び精力的に活動を続け、2009年に『アメリカン・ソウルブック』、2018年に『ソウル・サイド・オブ・タウン』をリリース。今年の3月にリリースされた『ステップ・アップ』でも彼のファンク・プレイは健在だった。

 彼らは1968年の結成以降、決して止まることなく、常にライヴ・バンドとして世界を回り続けていった。ロッコは2015年頃にも体調を崩していたが、復活。2017年の来日ではTOPのステージで元気な姿を見せていた。だが、再び体調を崩し、2020年9月29日にこの世を去った。TOPがライヴでメンバーを紹介をするとき、エミリオがロッコの名前を呼ぶと、会場はひと際大きな歓声に包まれる。常に多くの人に愛され続けてきたロッコ。肉体は朽ちるとも、音源や映像にアーカイブされた彼のプレイは、これからも世界中のベーシストを魅了し続けていくだろう。

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