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    追悼 – ティム・ボガート

    • Text:Jun Kawai
    • Interview:Ryo Takahashi(Bass Magazine 1994 JAN), Akira Sakamoto(Bass Magazine 2003 APR)

    2021年1月13日、ヴァニラ・ファッジやBB&Aベック・ボガート&アピス)といった、伝説的なバンドで強烈なベース・サウンドを響かせてきたティム・ボガートが逝去した。76歳であった。あのジェフ・ベックさえも虜にした、ワイルドかつテクニカルなベース・プレイは、ビリー・シーンをはじめとした後続のベーシストにも多大な影響を与え、多くのリスペクトを集めてきた。ここでは彼がベース界に残した足跡を振り返るとともに、過去の本誌インタビューを再掲載することで、改めて、その功績を讃えたいと思う。

    BIOGRAPHY
    ━━ロック界きっての荒くれベーシストが歩んだ道

     リッチー・ブラックモアがディープ・パープルを結成する際の参考とし、ジェフ・ベックが自身のバンドを解散させてまで共演を望み、若き日のビリー・シーンにも影響を与えたベーシスト=ティム・ボガート。“ベースを引っぱたく”というロック・ベースならでは美学を見事に体現し、バッキングという概念に縛られることなく指板を駆け抜けるそのプレイの様はワイルドであり、“荒くれ者”という表現がよく似合う。1960年〜70年代に活動したヴァニラ・ファッジやカクタス、BB&A(ベック・ボガート&アピス)をはじめ、1993年にはX JAPANのギタリストPATAの作品にも参加したほか、1999年にはCharとロック・バンド、CBA(Char, Bogert & Appice)を結成するなど、日本人ミュージシャンとの活動も目立った。本誌とも長年にわたって親密な関係性を築き、創刊以来、幾度となく誌面にてその人柄を紹介するとともに、ベース・プレイを検証してきた。世代問わず、その穏やかな人柄から繰り出されるパワフルなベース・プレイに魅了された読者も多いのではないだろうか。そんなレジェンド・プレイヤーの軌跡を、今一度振り返りたい。

    本誌2000年4月号では、CBA(Char, Bogert & Appice)にて活動をともにしたCharとの対談を掲載。両者の研ぎ澄まされたロック精神を垣間見ることができた。

     60年代末、ジェフ・ベックは崩壊した第1期ジェフ・ベック・グループの次のグループ結成へ向けて動き出した際、メンバーとしてまず頭に浮かんだのが、ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート(b)とカーマイン・アピス(d)だった。当時、クリームの強力なリズム体に多少なりともジェラシーを感じていたベックが、それに対抗すべく目をつけたのが、アメリカ人のティムとカーマインだったのは興味深い事実である。

     60年代の後半と言えば、クリームのジャック・ブルース(b)とジンジャー・ベイカー(d)のほかにも、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのノエル・レディング(b)とミッチ・ミッチェル(d)というパワー・トリオを支えるリズム体が活躍していたが、シンプルな構成になればなるほど、重要な役割を果たすのがベース・プレイヤーである。ドラムとリズムを支えるだけでなく、コードやリードまでプレイすることを要求される立場にいた彼らは、高度な技術を持っていなければ務まらないという意味でも、ギタリストやシンガーと同様に目立った存在であった。そんななかで、ヴァニラ・ファッジはキーボーディスト(マーク・スタイン)がいたのでトリオではないのだが、ティム・ボガートはパワー・トリオと同じようなスタンスでベースをプレイしており、それが国境を越えてジェフ・ベックをも唸らせたのである。
     その後ティムはジェフ・ベックと共演したことで、さらなる名声を得、実力派ロック・ベーシストとしてさまざまなプレイヤーから尊敬を集めてきた。彼こそまさに“ベース・プレイの職人”と言っていいだろう。

    管楽器からやむない転向で生まれた
    ベーシスト、ティム・ボガート

     ティム・ボガートは1944年8月27日、米国ニューヨークで生まれている。8歳のとき、ピアノのレッスンを始めた彼は、野球のリトル・リーグに参加したことでしばらく音楽から遠ざかっていたが、13歳になるとクラリネット、さらにサックスも吹くようになり、ハイスクールではマーチング・バンドに参加。その後、ニュージャージーに引っ越し、サックスを手にザ・ベルトーンズというバンドでハイスクールのダンス・パーティやVFW(海外戦役退役軍人協会)のホールなどを中心に演奏し、初めてギャラを手にするようになる。間もなくしてザ・チェスメンと名前を変えたバンドは、ディスク・ジョッキーのアレン・フレデリックスのバックアップを受けて、ニューヨークのクラブ・シーンへ進出。しかし当時のニューヨークではサーフ・ミュージックが流行っていたため、バンドにサックスはいらないと判断し、ティムはベースへと転向を余儀なくされたのだった。

     高校を卒業すると、ティムはニューヨーク近郊でいくつものバンドでプレイするようになり、65年にはリック・マーティン&ザ・ショウメンというバンドに参加。このバンドでマーク・スタイン(vo,k)と出会ったティムはすぐにバンドを辞め、新たにドラマーのジョーイ・ブレナンとギタリストのヴィンス・マーテルとともにザ・ピジョンズというバンドを結成する。ザ・ピジョンズは数多くの楽曲をレコーディングしたものの(このときの音源は1970年リリースのアルバム『While The World Was Eating』に収録されている)、ドラマーに満足がいかなかったことで、ジョーイに替わって新たにカーマイン・アピスを招き入れ、1966年12月にバンド名もヴァニラ・ファッジに変更して再スタートを切ったのだった。

    BB&Aのライヴ・カット。ティムのトレードマークであるナチュラル・フィニッシュのこのベースは、68年にフェンダーから手渡されたもの。もともとはローズウッド指板だったが、暗いステージだとポジションが見づらいということから、テレキャスター・ベースのメイプル・ネックに交換された。ネック以外にもピックアップの交換やフィンガー・レストの取り付け、フィードバックを抑えるためのアッテネイター・スイッチの装備など、随所に改造が施された一本だ。

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