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    田中章弘

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    【追悼】田中章弘 ─山下達郎「BOMBER」で魅せた元祖スラッパーが語った“スラップ黎明期”

    • 取材:ガモウユウイチ
    • 写真:星野俊

    2026年5月5日、日本の音楽シーンを第一線で支え続けたベーシスト・田中章弘さんが逝去されました。

    日本における“スラップ黎明期”であった1970年代前半、教則本もYouTubeもない時代に、血道を開くような独自の研究と工夫でその奏法を切り拓いた日本の“元祖スラップ・ベーシスト”。山下達郎さんの「BOMBER」をはじめ、後世に語り継がれる数々の名曲に刻まれた唯一無二のグルーヴは、今も多くのリスナーやプレイヤーの胸に深く生き続けています。

    ここに再掲載するのは、本誌2021年5月号のスラップ特集「SLAP THE WORLD」において、田中さんに登場していただいた際のインタビューです。ご自身のスラップ奏法誕生の裏側や当時の時代背景、そしてベースという楽器への想いを真摯に語っていただいた貴重な記録です。

    追悼の意を込めて、その言葉とともに、彼が日本のベース・シーンに遺した偉大な音と精神を、改めて感じていただければと思います。(編集部)


    ベース・マガジン2021年5月号掲載、田中章弘インタビュー誌面

    日本にスラップが伝わり始めた1970年代前半頃は、多くのスタジオマンたちがまだ謎の多かったスラップ奏法を独自に研究していった。田中章弘もそのひとりで、山下達郎「BOMBER」をはじめとした後世に語り継がれるスラップ名曲を生み出している。日本の“スラップ黎明期”においてベーシストたちはどのようにスラップを解釈していったのか。元祖スラップ・ベーシストである田中に、その時代の背景や、自身が行なった工夫について語ってもらった。

    力任せに叩いていたらケガをして、おかげで手首を使うんだと気づいた。

     ある日、楽器屋に行って下からベースを見ていたらネックが細くて長くて、ルックスがすごくよかったんですよ。それを下ろしてもらって弾いたら気持ちよくってね。そのころは北垣雅則(北垣響絃/g)なんかと3人でハッシュというバンドをやっていて、MBSの“ヤングタウン”っていうラジオ番組のオーディションに出たら合格して番組に出させてもらって。プロとしての初仕事でした。

     大阪のミナミにディランという喫茶店があって、そこで大塚まさじさん、西岡恭蔵さん、春一番をやっていた福岡風太さんなんかと知り合うんです。そのあとは、春一番コンサートをオイルフット・ブラザースで出たあと、石田長生(g)、佐藤博(k)、林敏明(d)とTHISを結成して、オリジナル・ザ・ディランの『悲しみの街』(1974年)に参加しました。あるとき、THISで加川良さんの『アウト・オブ・マインド』(1974年)を大阪の高槻市民会館でレコーディングしていたんですが、そこに鈴木茂さんが現われて一緒にレコーディングをしたんです。それから一週間くらいしてから、東京で一緒にバンドをやらないかという話が突然あって1974年にハックルバックを結成しました。

    参考:キャリアの歩みについてはこちらの記事も

     もともとハックルバックは、茂さんが『BAND WAGON』をライヴで再現するために作ったバンドだったんですが、そのアルバムでダグ・ローチがスラップをやっていたのがきっかけです。最初はラリー・グラハムやダグ・ローチの演奏をレコードで徹底的に聴きました。そして、ひょっとしてベースを強く叩いているように弾いているんじゃないかと想像したんです。

     それで、力いっぱいに腕を振り落として叩きつけて弾いていたら、血豆がつぶれてアザになってしまって。挙句の果てには腱鞘炎になってしまって、腕を動かせなくなってしまったんですよ。ただ、手首だけは動いたので、手首を回転させてネックに当てたら、“バス”っていう音が出て。それで人差指をひっかけてみたら、楽に“ンベッンベッ”とできたんです。そこで手首を動かしてやるものだと初めて気づいたんですよ。本当に怪我の功名で。結局、2週間くらいかかったかな。そうやって研究して自分のものにしていった感じですね。

     少なくとも自分のまわりでは誰もやっていなかったんです。「CHOPPERS BOOGIE」を弾いていた後藤次利さんとは会ってるんですけど、スラップをやっているのは見たことがなかったですよ。彼のスラップを見たのはずっとあとかな。これもちょっとあとなんですけど、山下達郎くんのライヴで伊藤広規くんがスラップをやっているのを見たんですけど、ああいう感じで弾くんだなと。やっぱり、自分のスタイルとは違っていましたね。

     茂さんは、具体的にどうしろとは言わなかったんです。そもそも、僕のスラップはダグ・ローチとはまた違ったサウンドだったと思いますね。ダグ・ローチとは使っている楽器も違うので(ダグは、ふたつのハムバッカーとひとつのシングルコイルのピックアップをカスタムしたジャズ・ベース)、僕のプレシジョン・ベースだとあの音が出なくて。どちらかといえばグラハムに近かったのかな。

     ティン・パン・アレーの『キャラメル・ママ』(1975年)に入っている「はあどぼいるど町」です。これはファンクではないんですけど、ちょっとトリッキーなスラップをやっていて。それ以前からハックルバックでスラップをやっていましたけど、レコードになったのはこの曲が最初です。

     それはおもしろいですね。スラップっていう言葉がなかったもんですから。僕の周りは、当時は“ハジキ”って言っていました。「CHOPPERS BOOGIE」のあとは、チョッパーという言い方が流行りましたね。スラップとは言わず、チョッパーかハジキでした。

     おそらく世界的にもやっている人は少なかっただろうし、日本人では少なくとも僕のまわりでは誰もやってなかったんです。上田正樹とサウス・トゥ・サウスの藤井裕さんは、ファンク・ベースを求められて同時期にやっていたという話をあとから聞きました。

     本当はライヴをやりたかったんですけど、スタジオの仕事がたまたま入ってきたんですよ。スラップが多くなったきっかけとしては、山下達郎くんの「BOMBER」(1979年)のスラップです。彼のアルバムには『Spacy』(77年)から参加しているんですが、「BOMBER」が大阪で人気になってヒットしたみたいで、それからスラップの依頼が増えました。今でも「BOMBER」のことで話しかけられることが多いですよ、コピーしたと話してきてくれます。坂本竜太くんもコピーしたと話してました。当時は、何回も録ったので、最後はけっこうヘロヘロだった記憶があります。

     そうですね。これは力を入れると手首がスムーズに動かなくなってしまうので、力を抜いて弾くように意識しました。ハックルバックの京都会館のライヴのときはすごく力が入っていたような気がしますが、スラップといえども力を抜くことが大事なんですよ。ハックルバックの頃はカチカチで力を抜いていなかったと思うんですけど。

     山下達郎くんの「BOMBER」や「SOLID SLIDER」、茂さんの「スノー・エキスプレス」とかはもちろん印象深いんですけれど、小林泉美さんの『ココナツ・ハイ』(1981年)に入っている「PENATEN」。この曲は小林さんと僕の共作なんです。ここでもスラップをやっているんですが、フュージョンの世界も入っていておもしろいと思います。今後また、小林さんと一緒にやる計画があるんですが、また同じようなことをやりたいですね。

     当時は、今と違って、教則本もYouTubeもなく自分で研究したから自分なりのスラップを生み出せたのかと思いますね。そのほうが“どうやってるんだろう”と想像力が高まるじゃないですか。今思うと、教則本なんかがなかったのが個性を生み出すのに良かったのかなと。スラップをやることによって、楽曲の雰囲気も変わりますし、グルーヴも出る。曲によってはベースの存在感がより良く感じられるようになる。スラップをやっていて本当に良かったと思いますね。

    田中章弘のプレシジョン・ベース


    ▲1973年頃、大阪の三木楽器で購入して以来、主力ベースの1本として使い続けているのがこの1969年製フェンダー・プレシジョン・ベースだ。“ジャズベのほうが高かったから、僕としては安いほうがいいなとプレベにしたんです。ジャズベはネックが細いから速いフレーズが弾きやすいけど、プレベはネックの厚みから手が動かしづらくて少しモタついてしまう。それが絶妙なあとノリになるのが気持ちよくてね”。パーツ類の交換はしておらず、フレットを打ち替えているのみ。山下達郎「BOMBER」など、数々の名演が残された。また、プレベでのスラップについて“プレベのスラップはイナたい木の音がする。その古い感じが僕には合っている”と語ってくれた。

    田中章弘 プロフィール写真

    たなか・あきひろ●1954年9月3日生まれ、大阪府出身。中学3年の頃にベースを手にする。レッド・ツェッペリンのコピー・バンドとして始まったハッシュをきっかけに活動を始める。1975年に鈴木茂によるハックルバックに参加し、上京する。その後は細野晴臣、大瀧詠一、伊藤銀次、山下達郎、高中正義、井上陽水、寺尾聰などの作品に参加。1983年頃からは松任谷由実のバックをレギュラー・メンバーとして30年ほど担当。近年は鈴木茂、小坂忠などのステージで演奏するなど、長きにわたり日本の音楽シーンを支え続けた。2026年5月5日逝去(享年71)。

    田中章弘 バックナンバー

    ベース・マガジン2021年11月号(Autumn)には連載「ニッポンの低音名人」に登場。自身のキャリアを8ページにわたり語っている。有料会員の方はこちらからお読みいただける。

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