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【ニッポンの低音名人extra】 – 渡辺直樹

  • Text:Koichi Sakaue

スタジオ・ミュージシャンの定義

直樹は中学3年で、自分はスタジオ・ミュージシャンになると決めた。そしてそれは、ずっとブレなかった。

“40歳過ぎてから中学の同窓会で、友達から言われたんだけど、僕は中3のときに、スタジオ・ミュージシャンになるって言ってたって。レコードのジャケットなんかに、ベース誰々とかクレジットが載ってるでしょ? 「そこに載るから、レコード店に行ったらチェックしてみて」なんて言ってたらしいです(笑)”。

それだけに、直樹のなかではスタジオ・ミュージシャンという職業の定義を厳密に捉えている。

“スタジオ・ミュージシャンってのはね、アレンジャーから指名されるっていう流れにいる人のこと。インペグ屋をとおして仕事をもらう人のことで、それを毎日2本とか3本とか、いろんなスタジオに行って、いろんなミュージシャンと一緒に演奏してっていう、それがスタジオ・ミュージシャン。どこにも所属しないフリーランスでね”。

この定義は、早くからスタジオでのプレイを経験していた直樹が、自分に課した掟のようなものだった。

“だって僕は、最初の伊丹幸雄のバックのとき、2枚目のアルバムではB面の曲を弾いてましたから。16歳のとき。なぜか使ってくれた。だからそのときからアルバムの裏に名前が出たりしてた。でもそれは、僕のなかではスタジオ・ミュージシャンとは言えないんです”。

その後キャンディーズのバック・バンド、MMPの頃には、スキル的には充分にスタジオ・ミュージシャンに達しており、実際にスケジュールの空いた日には、スタジオ仕事も経験している。しかし本人的には、これでもまだスタジオ・ミュージシャンとは言えなかったと語る。

“だってプロダクションに所属してましたから。だからキャンディーズのうしろで弾くときも、意識だけはスタジオ・ミュージシャンっていう思いで弾いてました。弾き方も、(岡沢)章さんみたいに足でリズムを踏みながら「俺はうまいんだ、カッコいいんだ」って(笑)”。

フリーランスであることが絶対条件。譜面も初見なら、ミュージシャンとも初対面。そんな環境でも一定以上のパフォーマンスができるというのが、直樹の言うスタジオ・ミュージシャンだ。

兄へのリスペクト

成長期の直樹のそばには、いつも兄・茂樹がいた。チャッピーというニックネームで、ザ・ワイルドワンズに参加するやいなや、その甘いルックスで一躍トップ・アイドルに上り詰めた茂樹。しかし本人はそれを良しとせず、グループ解散後は裏方として音楽家の道を歩み続けた。そんな兄の姿が、どれほど頼りになったか、どれほど励まされたか、そしてどれほど自分の成長を支えてくれたのか。今でも直樹は、心の底から尊敬していると話す。

“RRCの頃もね、兄貴と一緒だといろんな仕事が入ってくるんです。それで地方に営業に行く。広島の天満屋っていうデパートの屋上で月1回コンサートがあって、そこにデイブ平尾(vo)さんとか鈴木ヒロミツ(vo)さんとか、グループサウンズを解散したヴォーカルの人とかが来て、ビアガーデンみたいなステージで歌うんです。その人たちは兄貴を知ってるから「やあチャッピー」とか挨拶してね。じゃあ、あれやろうこれやろうって、ビートルズとかGSの曲とかやるわけですよ。そこで僕たちRRCがバックを務める。それが本当にためになった”。

茂樹はステージには出ずに、あくまでアレンジやプロデュースに徹していた。しかし行動はいつも、バンドと一緒だった。

“兄貴が(ワイルド)ワンズ時代は新幹線に乗るとき、当然だけどグリーン車移動だったんです。でもRRCで、僕たちと一緒に広島に行くときは普通の指定席。自分だけグリーン車で行くとかしないんですよ。みんなとワイワイやってるのが好きでね。そうすると「キャー、チャッピーよ!」ってまわりから騒がれるんだけど、大して気にもせず、サイン頼まれればサインしながら、ずっと僕たちと一緒にいた。みんなといるのが楽しかったんだと思う。そういうところも、すごいなって思ってました”。

10代の頃からアイドルのバックとしてテレビに出演する日常を送りながら、芸能界にはさして憧れを持たず、音楽の道を歩み続けた直樹だったが、そこには常に兄の影響があった。

“あの人は、ジュリー、ショーケン、チャッピーって、日本中の女の子からキャーキャー言われる存在に上り詰めちゃった人だから、僕が同じレベルで語れるとは思わないけど、彼はアイドルでいるよりロックが好きで、ミュージシャンに脱皮したいって考えてた。当時のアレンジャーで「この人がカッコいいんだよ!」とか言って、そういう音楽を作るクリエイター方面の仕事に行こうとしてたんです”。

茂樹はきっと、自分と同じ資質を弟・直樹に見出していた。芸能の世界より、音楽の話に目をキラキラ輝かせる6歳下の弟を目の当たりにし、自分と同じ種類の血を嗅ぎ取ったのだろう。だから知識も経験も、自分が与えてやれる限りのサポートを、自ら進んで行なった。自分がアレンジする曲のレコーディングに連れて行ったのも、身内で一番の理解者である弟に、自分の姿を見せたかったのではなかろうか。

“兄貴の世代のミュージシャンってたくさんいる。(後藤)次利さんも(岡沢)章さんもそうだし。斉藤ノブさん(perc)とかドラムの林(立夫)さんとか島ちゃん(島村英二/d)とか富やん(富倉安生)とか。兄貴がレコーディングに連れて行ってくれたから、みんな知ってるんですよ。それでみんな「おー、直樹」とか言って可愛がってくれる。すごいメンバーに囲まれてた。RRCの頃って僕は10代の子供だったから、兄貴のこととかそれほど考えていなかった。でも考えてみれば、兄貴だってまだ22〜3歳くらいだったから、子供って言えば子供ですよね。なのにすごいなって今にしてみれば思います。音楽的にも人間的にも尊敬してます”。

2002年12月に放送されたNHKラジオ『徹底追求!ベースの魅力』でトップ・ベーシストが集合。左から高橋ゲタ夫、直樹、納浩一、ハナワ(お笑いタレント)、鳴瀬喜博、黒木岩寿(東京フィル)という、異なるジャンルのベーシストが一堂に会した。直樹はソロ・ベースを披露。前列は司会の山本美芽。

ジャンルを問わないプレイ

小気味のいいチョッパー(スラップ)で直樹を知る者は多い。その上品でセンスの良いプレイは、AB’Sなどでも定評があったが、スタジオでも多くの名演を残している。刑事ドラマ『NEWジャングル』(1988年〜)のテーマなどでは、アレンジを担当した船山基紀も絶賛の、直樹らしい歯切れの良いチョッパーが聴ける。

そして直樹はロックのプレイにも光るセンスを見せる。WANDSや大黒摩季のアルバムなどはその代表だ。

“大黒摩季は、最初何曲が弾いて、だんだんアルバムごとに曲数が増えていった。スタジオワークってね、呼ばれて行ってもアーティスト本人はいないことがほとんど。でも大黒摩季のときは本人がいたんです。彼女は自分が曲を作ってるから、全プロセスを知りたいんでしょうね。ずっと聴いてて、ああしろこうしろとかは言わない。でも僕としては、本人がいるとやっぱり「カッコいいベースですね」って言われたい。そうすると、ギアが上がるんです。もっとすごいことやってやろうって思うから(笑)”。

また、スタジオ業界では、フレットレスでの直樹にも定評がある。

“そんなイメージないでしょ? でも実はよく弾いてるんです。服部克久さんなんかも「直樹くん、フレットレスで弾いて」とかよく言われてました。あと椎名林檎さんの「りんごのうた」はフレットレスで弾いてるんだけど、あるとき中村梅雀さんに会ったときに「直樹さん「りんごのうた」って直樹さんでしょ?」って言われたんです。「すぐわかった」って。それって、一番嬉しい褒め言葉です”。

『Tower Of Love』(1991年)という東京タワー竣工33年を記念して制作されたオムニバス・アルバムでは、フレットレスのソロを披露している。

“2曲参加して、1曲はソロ・ベース、もう1曲はフレットレスでメロディを弾いてる。フレットレスのテナー・ベースに細い弦を張って間奏を弾きました。自分がやりたいと思ってたことを実現できた”。

もちろんそのほか、郷ひろみ「言えないよ」などのヒット曲をはじめとする、しっとりしたバラードでは、落ち着いたラインのなかにセンス良く経過音を織り込んでいる。

譜面に強く、作編曲もし、パフォーマーとしても、歌って踊ってベースを弾いて、ソロ・アルバムを出したと思えば、ソロ・ベースのためのアレンジを考案し、律儀(?)に譜面を書き起こして……という直樹の通ってきた道をさらっていくと、典型的な多芸多才なマルチ・ミュージシャンに見える。

それでも自分はスタジオ・ミュージシャンでいたいと考える。自分が何者であるかを決して見失わず、冷静に自分を見つめ続ける。早くからあらゆる経験を積んできた直樹の半生は、一般人から見れば想像もできないが、その当事者でないと見えてこない目線がある。その目線において彼は、自分の役割を見出しているのだろう。今日も渡辺直樹は、ベースを持って家を出る。出会った曲を最高のものにするために。

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