NOTES

友達とのギャップ

クラスの仲間とバンドを組み、学園祭で初舞台を踏むというのは、中高生にとってよくある話だ。それに対して、中学3年からプロ・ミュージシャンだった直樹。友人はいたが誰もバンドに誘っては来なかったし、直樹自身も興味を持たなかった。

“同級生は、まったく目に入っていなかった。だから中高の友達とバンドを組もうとか考えもしなかった。音楽の話をした記憶もないんです、この時期は”。

テレビのなかでしか観ることのできない憧れの芸能人たちを、連日生で観ているどころか、スターが歌い踊るうしろで演奏まで務める直樹だったから、クラスの仲間のなかでは明らかに浮いていた。

“意識してないのにまわりから、芸能人っぽいねとか言われるんですよ。僕はバックだから、自分がメインじゃないのに。でもみんなが知ってるアイドルやタレントと一緒にテレビに出てるから”。

多くのアイドルは直樹と同世代。極端に言えば、アイドルは同級生の延長だった。しかし一緒に仕事をしている相手、つまりミュージシャンたちは圧倒的に大人ばかり。直樹は後者を見ていた。

“僕はミュージシャンになりたいのに、芸能人っぽいとか言われちゃう。「そうじゃないんだ、僕はティン・パン・アレーみたいになりたいんだ!」って思ってても、まわりはそういう風に言うわけ”。

憧れの“あっち側”

曲のテープと簡単な譜面を渡され、完璧に耳コピして、譜面に足りないオタマジャクシを書き込んで、本番までには間違えずに弾けるようにする。さらにコーラスまでやる。そのくり返しは、華やかさとは対極の作業だった。級友たちの憧れはアイドルたちだったが、直樹の憧れはティン・パン・アレーの細野晴臣であり、サディスティックスの後藤次利であり、トランザムの富倉安生だった。直樹のいる芸能界が“こっち側”なら、名うてのミュージシャンが集う世界は“あっち側”だった。

“自分のなかでは大変だった。なんとか“あっち側”に行って、シーンに残りたいって野望がありましたから。だからね、恵まれてたと言えば恵まれてたんだけど、苦労したと言えば苦労したんですよ(笑)”。

兄・茂樹の次に、“あっち側”の景色を見せてくれたキーパーソンが芳野藤丸(g)だった。スタジオ・ミュージシャンをやりながら、ギターはもちろん歌もこなす、直樹にとっては憧れのミュージシャンだった。

“だから藤丸さんと会ったとき、一緒にやることで“あっち側”の世界に行きたいって思った。藤丸さん、スタジオもやってたし、英語はペラペラで、ギター弾きながら歌ってたから、僕もそうなりたいって。僕はそういう人をスター・プレイヤーって呼んでるんだけど。僕は、スター・プレイヤーになるんだって思っていたし、そのためには一緒にいたほうが勉強になる。だからビート・オブ・パワー辞めて藤丸バンドに入った。藤丸さんの家に泊まりに行って、翌日は藤丸さんのスタジオ仕事を見学に行った。それは“あっち側”に行きたい!って思ってたから”。

藤丸の影響でラリー・カールトン(g)を知り、感銘を受けたこともあった。自分はベースでパートは違えど、学ぶことはたくさんあった。

“ラリー・カールトンと藤丸さんって、チョーキングの音程やヴィブラートとか似てるんですよ。音はもちろん違うけど、チョーキングはちょっと上気味に上げるとことか。普通の人はやらないんだけど、藤丸さんはそうした細かいニュアンスをコントロールできる。『シンギング&プレイング』(1973年)っていうラリー・カールトンの歌もののアルバムがあって、優しい歌声で雰囲気があってね。ギターはうまいし、曲はいいしってことで、聴いてて涙が出てきちゃった。あの精神というか音楽に対しての向き合い方、表現の仕方というか、そういうことをベースでやりたいって思ったんです”。

ある晩、直樹はスタジオ・ミュージシャン仲間で催された忘年会に出席した。彼の目線からは、そうそうたるメンバーが参加していた。そういうなかに自分がいることで、やっとこっち側の住人になれたと喜んだ。

1984年12月、スタジオで活躍するミュージシャンたちが一堂に会して行なわれた飲み会での記念撮影。ベーシストだけでも、直樹(前列右端)、長岡道夫(前列右から三番目)、美久月千晴(後列右端)、高水健司(後列右から二番目)、富倉安生(中列左端)、後藤次利(中列左から二番目)と、そうそうたる顔ぶれだ。ここに参加できたことで直樹は、やっと自分も“こっち側”に来れたと実感。

出会いと気づき

スタジオではさまざまな出会いがある。名人同士であっても、手合わせをしてみなければ、そのすごさや素晴らしさは、互いに実感できないことも多い。

その日もスタジオに出向いた直樹。ドラマーは初めての相手だった。名前は渡嘉敷祐一。直樹にとって憧れのベーシスト、岡沢章とコンビを組み、名リズム・セクションと謳われた優秀なドラマーだ。

レコーディングが開始されてすぐのこと、渡嘉敷が直樹のもとにやってきて譜面のある箇所を指しながら“そこ、4分音符ね”と言って戻っていった。言われるまでもなく4分音符を弾いていた直樹。“何を言ってるんだ?”と思った瞬間にハッとした。

“厳密な4分音符で弾いてなかったって気づいたんです。4分音符のちょっと手前で音を切ってたわけ。たとえば1小節に4分音符が続いてたら、2個目の4分音符の手前で、無意識のうちに鳴ってる弦を触ってから弾き直してた。でも厳密にやるなら切っちゃいけないの。4分音符ぶん音を伸ばさないとならないから。彼はたぶん岡沢章さんの教えから、僕のことを「あ、間を空けちゃうんだ」って思ったんじゃないかって。章さんはそういうところ弾き分けてるはずだから。だからそのあとのテイクからは、意地でキッチリ弾きました(笑)。もうピンときた。誰と比べてるんだ?って想像したら、章さんと比べてるに決まってるんだから、そりゃ気にしますよ(笑)”。

その後のテイクからグルーヴの芯が格段に太くなったことは、容易に想像される。同時にこのふたりの間に信頼感が生まれたことも。以来このふたりは、スタジオで顔を合わせるとリズムの話ばかりするようになる。

“彼とは、音符の長さとか、音楽とは?とか、グルーヴとは?とか、いろんなことを話しました。だから彼は、一緒に学んできた仲間だって、僕は勝手に思ってる。そういう話って、わかってくれる人とくれない人がいて、そこが長く気持ちよくやれる人とそうではない人との違いなんじゃないかって思います”。

一度信頼感が生まれると、リズムに色や抑揚をプラスする余裕も生まれる。それを誘うのはもっぱら直樹だ。アレンジャー的資質を持つ彼らしいやり方で。

“あの人ね、何でもできるのに、シンプルな曲だと小技を出そうとか考えないの。でもね、たまにちょっと派手にやったほうがいい場合があるんですよ。そんなとき僕は「行けー!」って顔してグイーン!ってスライドしたりする。そうやって挑発すると、彼もそれに応えていろいろ返してくる。終わったあとには、「まったく、直樹はもう」みたいな顔をする。それが楽しくてね(笑)。するとまわりが「え、渡嘉敷ってこんなプレイするんだ」みたいなことを言うから、きっとほかの現場ではそういうことしてないんだなって。あの人、意固地なところがあって、サビとかで「Fill」とか書いてあっても、単なる例で8分音符の連続が書いてあったりすると、そのまま叩いたりするんです。アレンジャーはカッコいいフィルが欲しいんですよ。それなのにそういうプレイをするから僕が「何でカッコいいフィルにしないの?」って言うと「だって譜面に書いてあるから」とか言うの。わかってるくせに、わざとそういうことする。だから僕が「やってよ」って言うと、すっごいカッコいいフィルを叩く。最終的にはやるくせに、最初わざとそういうことする(笑)”。

渡嘉敷祐一(d/右)とは、スタジオで共演して意気投合した間柄。写真は2009年のジャズ・フェスで、ともにケイコ・リーのサポートを務めた際の本番直前のツーショット。
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