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追悼 – 加部正義

  • Text:Yuichi Gamo
  • Interview:Yusuke Mikami(Bass Magazine 1996 MAY), Hisayoshi Ishihara(Bass Magazine 2004 DEC)
  • Photo:Eiji Kikuchi

2020年9月26日、日本のベース界、そして音楽史に多大な功績を残したひとりのベーシストがこの世を去った。ザ・ゴールデン・カップスやジョニー、ルイス&チャーなど、いくつものバンドで独創的なベース・プレイを発揮し、ベースという楽器の可能性を世にしらしめ、“天才ベーシスト”と呼ばれた“ルイズルイス加部”こと加部正義。ここでは、改めて波乱に満ちた彼の足跡をたどり、過去のベース・マガジンに掲載されたインタビュー記事を振り返ることで、稀代のベース・ヒーローへ想いを馳せたい。

BIOGRAPHY
━━ベースの存在を世に知らしめた、元祖“ベース・ヒーロー”

 1968年、世界的に見ても“ベース・ヒーロー”という存在がいない時代、まだギターとベースの違いも認知していない世間に、ベースの存在を知らしめたのが加部正義だ。日本のベース史半世紀のなかでも、加部ほど特異な存在は見当たらないと言えるくらいに、そのキャリアは波乱万丈に満ちていた。エレキ黎明期から日本のロック・シーンの確立まで常に最前線の現場に居合わせ、数々の名曲を生み出してきた加部の功績は、ひと言では表現しようのないものであり、日本の音楽シーンに多大な足跡を残した。“ギター弾きのようなベーシスト”とジョニー、ルイス&チャーで活動をともにしたCharが称するように、ベースの枠を越えた独創的なベース・ラインと、ステージ上で放たれる圧倒的なオーラは世代を超えて多くのオーディエンスを魅了した。本誌では表紙巻頭特集をはじめ、その端正なルックスとそのなかに秘められたキャラクターを幾度となく紹介してきた。現在第一線で活躍するベーシストが、影響を受けたベーシストとして加部の名前を挙げるように、多くの読者にも大きなインパクトを与えたのではないだろうか。日本が誇る元祖“ベース・ヒーロー”が歩んだ軌跡を改めて振り返っていきたい。

本誌1996年5月号では表紙を飾った。ウォッカ・コリンズが20数年を経て再結成、アルバムをリリースした際のロング・インタビューが掲載されている。

ザ・ゴールデン・カップスでの“リード・ベース”

 1948年に横浜で生まれた加部正義は、中学校時代にギタリストとしてジョニー&ショウメンに参加したのを皮切りに、ケネス伊東(g)、エディ藩(g)在籍のファナティックス、陳信輝(d, g)、林恵文(b)在籍のミッドナイトエクスプレスなどに参加した。1966年には、マモル・マヌー(d, vo)からデイヴ平尾(vo)率いる平尾時宗とグループ・アンド・アイにベーシストとして誘われ加入。バンドは1967年にザ・ゴールデン・カップスと改名して、シングル「いとしのジザベル/陽はまた昇る」でデビューする。その際に加部正義は、父の名前“ルイズルイス”から、ルイズルイス加部の芸名を命名。デビュー作での指板を縦横無尽に動き回るプレイは“リード・ベース”とも評され、当時のシーンに衝撃を与えた。3rdシングル「長い髪の少女」はオリコン最高第14位、4thシングル「愛する君に」は第13位のヒットを放ち、『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム 第1集』(1968年)など4枚のアルバムをリリース後に加部はギタリストに転向。新たに加入した林恵文がベーシストを担当した。

いくつものバンドをわたり歩き、
伝説的ロック・バンド、ジョニー、ルイス&チャーを結成

 ゴールデン・カップスを脱退後、1970年にルームを結成するもすぐに解散。同年には、フード・ブレインに参加してアルバム『晩餐』(1970年)をリリースした。71年には、陳信輝&ヒズ・フレンズの『SHINKI CHEN』にベースでゲスト参加したのち、陳信輝らとパワー・トリオのスピード・グルー&シンキを結成するも、2ndアルバム『スピード・グルー&シンキ』(72年)制作途中、2曲に参加したのみで空中分解。73年には、ママリンゴに参加(b:柳ジョージ)。その後、幾度かの改名を経て最終的にはデイブ平尾とゴールデン・カップスとなる。さらに76年には山口冨士夫(g, vo)のリゾート(b:小林英男)にも参加している。それぞれ、後年にライヴ音源がCD化された。そのほか、スクール・バンドや、アマテラスなどにもゲスト参加した。

 1979年にはChar(g, vo)らと“ジョニー、ルイス&チャー”を結成。ESP製のベースを使い始め、ベーシックなベース・ラインが増えていった。バンドは『FREE SPIRIT』(1979年)など3枚のアルバムをリリース後、ピンククラウドと改名。94年の活動停止までに、『KUTKLOUD』(1982年)など12枚のアルバムをリリースした。ピンククラウドへの参加時には、同時にアン・ルイス、山口冨士夫、佐野史郎などの作品にも参加している。また、彼らが所属していた江戸屋レコードから、1991〜97年の間でリリースされていたコンピレーション『江戸屋百歌撰』シリーズにも、さまざまなバンドで参加。すべてのジャケット・イラストを加部が手掛けた。

ソロ作品もリリースし、
最期まで衰えなかった音楽への情熱

 ピンククラウド解散後には、ZokuZokuKazoku(b:鈴木享明)や再結成したウォッカ・コリンズなどにも参加。ZokuZokuKazokuは、1994年に『Panic in the city』をリリースしたMERCY KILLINGが発展したもので、『Crescent』(1998年)のほか、5枚のアルバムをリリースした。ウォッカ・コリンズは、大口ヒロシ(d)の大口プロジェクトが母体で、『Chemical Reaction』(1996年)など4枚のアルバムに参加。本誌創刊10周年の記念コンピレーション『低音横綱』(1996年)には大口プロジェクトのメンバーとして参加している。そのかたわら、『MOON LIKE A MOON』(1983年)など4枚のソロ・アルバムもリリースするなど個人名義での活動も目立った。

 2002年には映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作決定とともにゴールデン・カップスが再結成。加部はギターとベースを兼任した(b:スティーブ・フォックス)。2008年には、グループ・アンド・アイ(b:大貫悟)を結成し、続く2015年には、ベースも兼任した元祖ぞくぞくかぞくでの活動も開始させた。さまざまなバンドで、充実した活動を行ない、本年9月にもライヴが予定されていたが、新型コロナ禍の影響で延期となっていた。その後、2020年9月26日に多臓器不全により横浜市内の病院で急逝。享年71歳だった。

2004年12月号では、ベーシストとして歩んできた軌跡について改めてインタビューに答え、それまでの活動を振り返った。

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