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ファンク黄金時代の再発掘――日本のファンクマスターたち
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- Text:Masayoshi Kondo
“関西ファンク”を響かせた藤井裕
1973~76年に活動した上田正樹&サウス・トゥ・サウスのベーシスト=藤井裕は、音数の多いフレージングで地を這うようにうねるベース・ラインを聴かせる個性派だった。ともすればハイとローを強調したドンシャリのサウンドに向かいがちなファンク・ベースのジャンルで、野太いサウンドによる濃いグルーヴで迫るベーシストは少ないだけに、彼のセンスは際立っていた。ベースを始めたのはゴールデン・カップス在籍時のルイズルイス加部の演奏を聴いたのがきっかけ。プロになったのは早く、10代中頃からキャバレーやダンス・ホールのハコバンで鍛え上げられた。のちに上田正樹と出会ってともにサウス・トゥ・サウスを立ち上げ、関西ブルース・シーンの台風の目となったときでさえまだ20代の前半という若さだった。当時の音源は、1974年に開催された音楽フェスの出演アーティストのライヴ演奏が収められた『1974 One Step Festival』での数曲と、『この熱い魂を伝えたいんや』(1975年)が残されており、「トライ・ア・リトル・テンダーネス」「ウ・プ・パ・ドゥ」「お前を離さない」などのカバー曲から「むかでの錦三」「最終電車」といったオリジナル曲まで、彼らが敬愛したオーティス・レディング、ルーファス・トーマス、レイ・チャールスなどR&B/ソウルのエッセンスを自分たちなりに昇華した“関西ファンク”を聴かせている。
ファンク化の要となるファンクマン小原礼、ファンク・スラップが代名詞の後藤次利
サディスティック・ミカ・バンドも、1970年代にファンクを取り入れたバンドのひとつである。もともとフォーク出身の加藤和彦がまず率先して影響を受けたのは英国グラム・ロック経由のロックンロールであって、デビュー・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』(1973年)はまさにその世界。しかし、バンド内の演奏陣4人による“サディスティックス”という概念が芽生えてからは積極的にファンクを取り入れ始める。2ndアルバム『黒船』(1974年)では、加藤のフォーキーなヴォーカル曲と対照的に、組曲風の「黒船」や「どんたく」などで跳ねるようなファンク・リズムを展開。その要となったのは、小原礼のベースだった。それは小原脱退ののちに加入した後藤次利にも引き継がれ、サード・アルバム『ホット・メニュー』(1975年)では「WA-KAH! CHICO」「ファンキーMAHJANG」など、ますますファンク化を加速。太い音質と豊かな音量のスラップに代表されるワイルドなトーンは後藤次利ならではのモノである。
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それでは最後に、1970年代に欧米のロックやソウル、日本の歌謡曲、両方をリアルタイムで経験した当時のティーンエイジャーとして証言しよう。ここに紹介したベーシストたちが残した楽曲と、ファンクを部分的あるいは表面的に取り入れた歌謡曲との違いは何だったのか? それは、当時の最新のスタイルであった音楽を聴きこんだ耳で鑑賞に耐えうるかどうか。そのひと言に尽きる。当時の歌謡曲が少しばかりファンクをかじったところで所詮それは歌謡曲でしかない。しかし当時、最新のソウル/ファンクにセンスもテクニックもどっぷりと浸かった彼ら若手ベーシストたちなら、早耳たちのツボにハマったプレイも可能だった。しかも、そのプレイが映えるアレンジを提供することもできた。むしろ彼らにとっての次なる課題は、そのまま演ってしまっては濃厚すぎるファンクのエッセンスを、いかにドメスティックに加工するかだったのである。その努力の結果、プレイヤーのレベルだけでなく一般リスナーの音楽を聴くセンスまでが向上したのが1970年代後期のミュージック・シーン。理想的な展開である。そのエネルギーは1980年代に花開くJフュージョンやJポップへと引き継がれていった。
『ベース・マガジン 2021年2月号(Winter)』では、“ファンク黄金時代の再発掘”と題した巻頭特集が掲載されています。同特集では、時代を彩った7人のファンク・ベーシストの掘り下げや、各地域の名演分析、レア・グルーヴ発掘、ファンク奏法特集などを実施。全80ページ超えの大ヴォリュームで“ファンク黄金時代”を深掘りしています。