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1960年代中期のアメリカで誕生し、一大ムーヴメントを巻き起こしたファンクは、ダンス・ミュージックの礎として現在の音楽にも深く根付いている。そして、“グルーヴ”が要となるファンク・ミュージックにおいて、ベースは重要なファクターである。

というわけで、『ベース・マガジン 2021年2月号(Winter)』ではファンクが隆盛を極めた1960〜1970年代にフォーカスを当て、その魅力を再確認する巻頭特集企画を実施した。

広大なアメリカで広まったファンクは、その後、世界中に伝播していった。日本もその例に漏れず、1970年代頃の歌謡曲には、その要素が大いに感じられる楽曲が多く作られた。つまり、最先端の音楽スタイルを貪欲に吸収し、当時の日本の音楽シーンの発展に貢献した日本人ベーシストたちがいるというわけだ。本企画では、ファンク黄金時代において、アメリカから遠く離れたここ日本で低音を鳴らしたファンクマスターたちを紹介しよう。

歌謡曲にファンクのテイストを加えるためのバランス感覚

 1960年代にアメリカで起こったソウルからファンク・ミュージックへという進化の流れは、1970年代に入ると黒人公民権運動と連携しながらニュー・ソウルとして活発化。白人マーケットにまで勢力を広げ、1970年代後半に大ブームを起こしたディスコへとつながっていく。その流れは、もちろん日本のミュージック・シーンにも影響を及ぼし、職業作曲家や編曲家がこぞってその手法を採り入れていった。1970年代といえばまだ日本のマーケットは、今で言う歌謡曲が主であったが、例えば一世を風靡した西城秀樹の「激しい恋」(1974年)や、キャリア初期はソウル・シンガー然とした歌唱が特徴的だった和田アキ子の「古い日記」(1974年)など、多くのアーティストの楽曲にファンクのテイストが加えられていく。しかし、筒美京平や都倉俊一に代表される職業作曲家による手法は歌謡曲のマーケットでヒットさせることが大前提であり、ドメスティックな曲調への強引なファンク・ベースの導入は奇異に感じられる。スタジオでの仕事を受けた江藤勲、寺川正興など当時のベテラン・ベーシストのプレイにも、やはり制約がある程度かけけられていたように聴こえる。つまり、完全にファンクに針を振り切ることが許されていないのである。

 しかし、この時期から少しずつ登場する若手アーティストは、自作自演でアレンジも自分たちで行なうようになっていく。つまり、既存の歌謡曲のマーケットで売ることなどは考えてはいない、新たなアプローチの音楽が登場したのである。当時、カーペンターズに代表されるA&Mやダンヒルなどのレーベルのような王道アレンジによるサウンドを目指していたアーティストは、ソフト・ロックとして歌謡曲のマーケットでも市民権を得ていた。しかし、現在“シティ・ポップ”として再評価されている類の作品の大部分は、当時は売れないアンダーグラウンドな作品だったものも多く、完全な線引きはできないが、日本におけるファンクの始まりはシティ・ポップというジャンルの登場と重なる部分が多い。

 そして1970年代の後期になれば、アーティストやミュージシャン主体のアルバム作りが少しずつ増えてくる。レコード会社にもそれを推奨する空気が漂い始めたのだ。それに伴い、演奏するミュージシャンにも変化が表われる。スタジオ・ミュージシャンの間ではファンクを始めとするソウル・ミュージックから影響を受けたプレイが旬となり、スタジオでは若手ミュージシャンへのちょっとした世代交代も起こった。

江藤勲
 1960年代後半から1970年代の歌謡曲黄金時代において重要なベーシストのひとりである江藤。筒美京平を始めとする人気作家の楽曲に多数参加し、後進のスタジオ・ベーシストたちにレッスンを施すなど、高い影響力を持っていた。

 まずは旬とされるアレンジの変化があった。ベース演奏のパターンやフレーズは曲の素材だけでなくアレンジに大きく左右されるので、これはファンク化への絶対必要な条件。そしてバンド編成のアーティストの増加。歌手のバックとしてその都度スタジオ・ミュージシャンを集めるのではなく、歌手を含めたバンドとして常時活動していれば、アレンジはある程度バンドで練ることになるからだ。そのような日本のミュージック・シーンの変わり目だった1970年代の中頃から後期にかけて台頭し真価を発揮したのは、ファンクなどの最新の洋楽の影響下で育った若手ベーシストたち。ここからはその時代に登場した、日本においていち早くファンクを採り入れたベーシストの一部をご紹介しよう。

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