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INTERVIEW − 津川久里子

  • Interview:Koji Ishizawa
  • Photo:Daisuke Abe、Yoko Nakata

本場ニューヨーク仕込みの女流ウッド奏者が
1stソロ作で描く、かけがえのないもの

長らくニューヨークで活動し、その間に日本人ミュージシャンと結成したジャズ・バンド、UoU(ユーオーユー)で2作品(昨年に3枚目も発表している)、ギタリストで夫の阿部大輔と3枚のデュオ・アルバムがある津川久里子。約20年にもわたるアメリカ生活にピリオドを打って2020年2月に帰国した彼女が、昨年、満を持して1stソロ・アルバム『プレシャス』をリリースした。プロデュース&ギターに阿部大輔、ピアノにデイビッド・ブライアント、ドラムに石若駿を迎え、素晴らしい内容に仕上がっている。彼女に、バックグラウンドやニューヨーク時代、そしてアルバムのことについて語ってもらった。

まるで自分の演奏がレントゲンで見られているような感覚。

──津川さんは千葉県立冨里高校でジャズ・バンド部に入ってベースを始めたとのことですが、入部する前からジャズが好きだったんですか?

 父が好きで家でよくかかっていました。ですが、私はその頃はギターでビートルズを弾けるようになりたくて、練習していました。

──2002年にバークリー音楽大学に入学しましたが、同期にはどういった人がいましたか?

 ベースで一番有名になった人はエスペランサ・スポルディングです。彼女とは仲が良くてよく一緒に練習したり、学内のリサイタルで一緒にデュオをしたりしていました。当時から素晴らしい才能の持ち主でしたね。ほかの楽器ではトランペットのクリスチャン・スコット、ギターのニア・フェルダーも一緒でしたし、ヴィブラフォンのウォーレン・ウルフやドラムのケンドリック・スコットはまだ学校周辺にいました。日本人では隣の家にピアノのBIGYUKIが住んでいて、よく“ジャズを教えてくれ”なんて言われました(笑)。ほかにも数えきれないほど素晴らしいミュージシャンたちがいて、刺激が強すぎでしたね。

──好きなベーシストはたくさんいるでしょうけれど、なかでも特に影響を受けた人を挙げるとすると?

 たくさんいすぎますが、強いて挙げるとすると、レイ・ブラウンとチャーリー・ヘイデン。あとクリスチャン・マクブライドとポール・チェンバース、スコット・ラファロですね。

──卒業後にニューヨークに拠点を移して、最初にやった重要な演奏は誰とのものでしたか?

 バークリー時代の知り合いだったブランドン・サンダースというドラマーのギグです。彼は自身を“スウィング・マシーン”と名乗ってるんですが、事実、めちゃくちゃスウィングするんです。毎週のように演奏して鍛えられました。今の私のスウィング・フィールはそのときに得られた気がします。また、彼は顔が広くて、著名なミュージシャンたちと交流があったので……例えば、ピアノのアンソニー・ウォンジーやジェブ・パットン、ジェラルド・クレイトン、オルガンのマイク・ルドーン、サックスのティア・フラー、先ほど言ったウォーレン・ウルフ……そういった人たちと一緒にプレイするきっかけを与えてくれました。なかでもウォンジーとは、そのあと彼のバンドに招かれてツアーに行ったり、ジャズ・クラブのスモールズなどにも出演しました。

──ギタリストの阿部大輔さんと知り合ったのは、ニューヨークに移ってどのくらいのときですか?

 1年後くらいでしょうか。サックスの山田拓児さんのバンドがツアーをするというので、マンハッタンのスタジオでリハーサルをやったときが初対面でした。本番のベーシストは日本に住んでいる人だったので、リハだけ私が代わりに頼まれて。ただ、大輔のことは、その前に共通の友人たちから噂はよく聞いていたので、“あ、いた!”って感じでしたね(笑)。

『プレシャス』
アーシングミュージック
EM2201

──その山田さんに加えて、ピアノの小森陽子さん、ドラムの二本松義史さん、そして大輔さんと津川さんで、バンドUoUを結成し、2010年に『Home』でデビューしました。それ以前に誰かのアルバムに参加したりは?

 いいえ。私にとってもこれがレコーディング・デビューになりました。

──UoUでは2010年と2011年に日本凱旋ツアーをしましたよね。

 みんなで日本ツアーをしたくてレコーディングをしたので、ワクワクしましたね。それから、2011年は東北を回っているときに東日本大震災に遭ったんですよ。幸い日本海側だったので私たちは大丈夫でしたが、すごい経験でした。

──UoUは2013年に2ndアルバム『Take the 7 Train』をリリースしましたが、その制作前に、山田さんと小森さんが帰国することになったんですよね?

 実は、1枚目『Home』を録音した時点で、私と大輔を除いた3人がほぼ同時期に帰国することが決まっていたんです。それで、アルバムという形に残して、日本でツアーしようという流れになったんです。

「しかのしまドライブ」 UoU 【Streaming live at studio Dede】

──その後、津川さんはふたりのお子さんを出産しました。音楽とは関係ないのですが、ニューヨークの病院の費用は日本と比べるとどうなのでしょうか? 昨年9月のアルバム発売記念ライヴのときに、MCで、出産して2日後には退院させられたと話していましたね。

 ちょうどオバマ大統領が“オバマケア”を始めたときで、保険に入っていましたが、上の子のときは、それでもそれなりにかかりました。あと上の子のとき、出産前に手術をしなくてはならなくなったんです。それはものすごい額の請求が来てびっくりして。もちろん払えないので病院の基金に相談したらかなり手頃な値段にしてもらえました。ちなみに手術は日帰りでしたし、日本では出産後は1週間ほど入院すると聞いていますが、私の場合は2泊3日で体がボロボロでした(笑)。あと、下の子のときは出産費用は無料でした。偶然にもビヨンセが出産した病院と同じだったんです。

──2014年にはJr.EXILEの音楽講師を務めたそうですね。聞くところによると、オーディションを突破した若者がニューヨークに3年間武者修行に行くというプロジェクトだそうで。

 はい。担当予定の友人ができなくなったので代わりに話が転がって来まして、ソルフェージュを教えました。18人の10代の未来のスターの卵たちと関われて、とても刺激的でした。その後は出産が控えていたので、大輔にバトンタッチをして夫婦で携わらせていただきました。

──それからブルックリン・ミュージック・スクールで、日本人としては初めて講師も務めたとか。

 友人のアメリカ人ドラマーが推薦してくれたんです。アフタースクールの子供たちや若者に、おもにプライベート・レッスンで教えていました。ベースの生徒が少なめだったので、得意ではないのですがピアノも1コマ教えていました。

──改めて、津川さんにとってニューヨークとは?

 どこで誰が見ているかわからない環境というか。例えばロバート・グラスパー(p)の編曲した曲をギグで演奏していたら、ふらっと本人が現われたり! ほかにもピーター・ワシントン(b)が客席にいたり、ウィントン・マルサリス(tp)やルイス・ナッシュ(d)に観られて、“あれは誰だ?”と言われたり。まるで自分の演奏がレントゲンで見られているような感覚……私が何を弾いているか、すべてお見通しなんだろうなと。とても緊張感のある街でした。

──そして2020年2月、偶然にもコロナ禍になる前に帰国するわけですが、きっかけはなんだったのでしょうか?

 環境を変えたくなったというのが一番の理由ですね。ニューヨークでの音楽生活はどちらかと言えば受け身の体制でしたので、何か自分にしかできないものを作って世に与えるほうになりたかったんです。あと、子育てもニューヨークの環境がベストだとは思っていなかったので。まさに“ときが来た!”という感じで、バークリー音大時代も含めれば約20年のアメリカ生活にピリオドを打つ決意をしました。

──日本に戻ってみて、どうですか?

 19歳で渡米したので、逆に日本での音楽活動のすべてが目新しくて新鮮です。物価もニューヨークよりも安いので暮らしやすいですし、洗濯機や掃除機やテレビやら、日常のあらゆることが便利で感動しました。そうそう、洗濯物を外に干せることも(笑)。それに子供たちに日本の文化を学んでもらえるし、なによりも家族と距離がグッと近くなって、毎日楽しく暮らしています。

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