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    日本の音楽シーンを支えてきた手練れたちを紹介しているベース・マガジン本誌連載の『ニッポンの低音名人』。発売中のベース・マガジン2021年5月号では渡辺直樹を取り上げている。音楽一家に生まれ、ベース経験なしの中学3年生でプロになったという早熟ベーシストの華麗な遍歴は驚愕のエピソード満載だ。

    ここでは、本誌では紹介しきれなかったエピソードや関係者の証言、渡辺直樹のルーツや参加作を見ていこう。

    ハイレベルな“当たり前”

    “直樹は体がデカいからベースだな”。作曲家・加瀬邦彦が、ギターを弾き始めた中学生に言ったひと言。それに対して“はい”と答えてしまうのが渡辺直樹だ。ベースを弾いたことがないどころか、ベースという楽器すらよく知らなかったにもかかわらず。素直だったからとしか言いようがない。

    初めて組んだバンドはプロ。それで足を引っ張ることなくやっていけたのは、才能はもちろんだが、それ以上に環境への順応力の高さ、つまり性格が素直だったことを物語る。

    “僕が入ったフレンズ(伊丹幸雄のバック・バンド)は、みんな最初から、ちゃんとできてた。今考えるとウマかったんだろうけど、それが当たり前と思ってました”。

    “当たり前”の環境は、結果的に直樹のなかに眠っていた才能を強制的に叩き起こす。すぐに1曲を間違えずに弾くことができるようになり、ベースを弾きながらコーラスを歌えるようになった。それが“当たり前”だったからだ。

    “フレンズでは、簡単なコード譜があって、覚えて演奏してコーラスをやるというのは普通にやってました。みんな普通にやってたから、僕もやらなきゃって思って”。

    “当たり前”のハードルは、どんどん上がっていく。あいざき進也のバック・バンド、ビート・オブ・パワーでは、初見で演奏できるのが当たり前となった。藤丸バンドで西城秀樹のバックを務めたときは、弾きながらステップを踏むのが当たり前に、そしてキャンディーズのバック・バンド、MMPでは、彼女たちのアルバム制作に参加し、作編曲ができるのが当たり前になった。

    “キャンディーズが解散にあたって最後のアルバムを作るときは、レコーディングはもちろん、歌入れ、トラックダウンまでやりました”。

    バック・バンドを卒業し、ようやく自身のグループ、スペクトラムを結成した直樹は、それまでミュージシャンとして身につけてきたスキルをすべて注ぎ込んだ。

    “スペクトラムでは、ヘルメットかぶって、弾いて歌って踊って。そういうのって、なかなかできませんよ。僕にはそれまでのプロセスがあったからできた。そういうことができる連中が集まってたんです”。

    環境に順応し続けたことで、その成長スピードは落ちるどころか加速していった。本番だらけの環境も、その成長スピードをあと押しした。“100回の練習より1回の本番”とはよく言われるが、直樹の日常は本番だらけだったからだ。

    ベースは簡単。と思いきや、

    アコギしか弾いていなくても、すぐにベースを弾くことができた直樹。加瀬邦彦は“ベースは、ギターより弦が2本少ないから簡単だぞ”とも言ったという。その言葉を鵜呑みにしてか、本当に弾けるようになってしまった。ちなみに加瀬はワイルドワンズ結成時、島英二(b)にも同じことを言ったらしい。

    “コードは何となく読めたから、一応、曲にはなる。僕だけ素人だったけど、ちゃんとついていけてたのは、まわりがウマい人たちだったから。ウマい人とやると、自分がものすごい勢いで成長していく”。

    ウエスタンカーニバルに出たとき、ほかのバンドのベーシストを観ても直樹は、自分も弾けると感じていたし、実際に弾けていた。しかし練習中に兄・茂樹の放ったひと言が、慢心しかかっていた直樹を現実に引き戻す。

    “音程もわかったし、多少難しいこともできたから得意になってた。そうしたら兄貴に「おーい、ハシってるぞ!」って言われて。「え、ハシるって何?」みたいな”。

    直樹は、リズム・キープという課題に初めて向き合った。それまでほかのメンバー、特にドラムと合っていればいいと思っていた。

    “やっぱり子供なんで、僕もリューベン(辻野/d)も、感情が盛り上がっていくとハシっていくんですよ。兄貴が「ハシってるぞ!」って言うんだけど、僕もリューベンも一緒にハシってるから、僕の感覚ではぴったり合ってるんです。だから最初は意味がわからなかった。でもあとでテープとか聴くと、確かに速くなっていってるの。それ聴いて、やっと「ああ、こういうことかって」”。

    さらに、才能と耳の良さでやってきた直樹にとっても、地道な努力を強いられる課題が立ちはだかった。譜面だ。

    “大変だった。でも自分で書いてたら、読めるようになってきた。ただ僕の場合、書いた譜面を兄貴が直してくれるって環境があった。たとえば1小節4拍だったら、2拍ずつ分けて書くとわかりやすくなるとかね。タターンターンターンっていう場合、真ん中を8分音符でタイをつけて書くんです。そうするとリズムが見えてくる。リズムは合ってても書き方で見にくい譜面って、現場でもいっぱいありました”。

    そうやって直樹は読譜をマスターしたものの、それでも初見のできない時期があった。そこでは持ち前の、覚えの速さが逆に仇になった。

    “初見ってのはワンランク上の話で、譜面が読めるってのとは違う。まわりのみんなは本当に初見でバンッ!ってできた。それに対して僕は間違えながらも譜面を見つつ「あ、こう書いてあるのか」とか思いながら弾くというレベル。で、弾いてると覚えちゃうんです。そうすると次にはもう、みんなと一緒にできてたから、まわりからは初見ができると思われてたかもしれない。実はできてないのに(笑)”。

    広い音域を使うソロ・ベースのプレイに適しているというアトリエZの6弦。当時、アトリエZに6弦ベースは存在しなかったが、社長である本橋弘吉氏に相談して製作を依頼。ハイ・ポジションで和音を弾くとキレイな音が出る。座って弾くときのため、ボディ下部を小さめにしてある。梶原順(g)とのデュオ・ライヴなどでもよく使われる。

    洋楽、ピーター・セテラ

    子供の頃、兄の部屋には主だった洋楽のレコードがすべてあり、直樹はビートルズをはじめあらゆる洋楽を聴いていた。気になる音楽、気になるベーシストは何人かいたが、最もハマったベーシストはシカゴのピータ・セテラだった。

    “ピーター・セテラってすごく難しいことやる。しかも歌いながらね。それを見習ってたから、僕も弾きながら歌えるようになった”。

    もうひとつピーター・セテラから学んだこと。それは、その場その場でフレーズを変えていくことだった。

    “仕事ではレパートリーとして洋楽も取り入れてたんで、僕はレコードをコピーして、シカゴの曲のフレーズも覚えてたんです。そうしたら『シカゴ・アット・カーネギー・ホール』(1971年)と日本に来たときのライヴのプレイが全然違うんですよ。僕はそれまで、同じ曲では同じフレーズを弾くものと思ってたから「なんで違うんだ?」って。衝撃的でしたよ。それで、変えてもいいんだって理解したんです”。

    その影響は、現在に至るまで続き、歌のバックでは2番からフレーズを変えていった。それが功を奏するごとに「変えていいんだ」から「変えたほうがいいんだ」に変わっていった。

    “最初は譜面どおりに弾くんです。その後ちょっと変えてみて、アレンジャーが何も言わなかったら、次のテイクではもっと変えてみる。終わってから「今のカッコよかった」って言ってくれたりすると、もう快感です(笑)。つまりアレンジャーのイメージの、さらに上を行けるよう、あれこれ工夫してフレーズを考えるんです”。

    これは意外と意識していないと難しい。読譜に困らないミュージシャンほど、逆に譜面に縛られてしまうからだ。

    “譜面を見ながら弾いてるとね、たとえば1番が終わって2番に行くとき、ダルセーニョとかで元の場所に戻るでしょ? ボーッとしてると同じこと弾いて、それで仕事はできちゃう。でも戻るのは単に譜面上であって、聴いてる人にとっては時間は流れてるから、実は戻ってないんですよ。それに気づいてから、自分はそんなことはしないぞって思うようになった。本来ポップスって、そうあるべきでしょ?”。

    だから直樹は、多くの洋楽から、ちょっと変わったプレイをするベーシストを好む。

    “ジェームス・ジェマーソンだって、メロディと全然違うことやってるし、エマーソン・レイク・アンド・パーマーのグレッグ・レイクもすごかった。バンドではシカゴとかキング・クリムゾンとかイエスとかもやるから、それがおもしろくておもしろくて。そういうフレーズを聴いて「ああ、こうやってるのか」って確かめてね。あと「グランド・ファンク・レイルロードは3人なのに、なんで全体のサウンドがしっかりしてるんだ?」って不思議に思ってね。そうしたら兄貴から「あの人も、スタジオやってるんだよ」って聞かされた。それでますますスタジオ・ミュージシャンに憧れるようになった”。

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