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【ニッポンの低音名人extra】 – 長岡“ミッチー”道夫

  • Text:Koichi Sakaue
  • Photo:Eiji Kikuchi

プレイに集中し、仲間にリスペクト

 長岡はプレイ時に緊張した経験がないという(厳密に言えば中学時代の初ステージの1回を除いて)。スタジオで名だたる腕ききミュージシャンたちと共演するということで、プレッシャーなどは感じなかったのだろうか。

“みんなウマいなとか、スタジオではそんなこと考えないよ。そういうこと考えた時点でプロじゃないって思っちゃう。自分は自分なりにやるって気構えでいた。それは森山良子ちゃんのバックを務めた20代の頃から、ちゃんとやるのが当たり前って考えてたんだと思う”。

 緊張しないのは、周囲のミュージシャンを評価していないという意味では、もちろんない。むしろウマい仲間がゴロゴロいたから、緊張する以前に彼らを追いかけることに集中していたのだ。そして集中すればするほど、周囲の音が聴こえてきて、セッションの質は上がっていった。

“スタジオで誰かに刺激を受けることはあるよ。終わってみれば、みんなすごいなって毎回思うしね。本番中に思わぬフレーズが聴こえてきたりして、嬉しい気分にさせてもらったりとか。スタジオの連中といると、よくそういうことが起こる。音楽ってものの深さを、つくづく感じる瞬間だね”。

 そんなスタジオでの仲間について、もっと語ってもらおう。まずは、SHŌGUNで鉄壁と呼ばれたリズム体における相棒、山木秀夫(d)との出会いについて。長岡は懐かしそうに語り始めた。

“ヤマキン(山木のニックネーム)と最初に会ったときはね、「え、このドラム何? すげえ!」って思ったよ。普通じゃなかった。遊びで4ビートやったときとか、シンバルワークがものすごい速いの。「チンチキ、チンチキ……」って。それまで聴いたことがないくらい速かった。あいつ、それまで九州にいたんだけど「ああ、なるほどね、こんなことできるから東京に呼ばれたんだ」って思った。呼んだのは市川(秀夫/p)さんで、そのあと市川さんとヤマキンとでセッションしたこともあったな。そしたら途中で、どこやってるのかわからなくなっちゃってさ。あのときは「俺、しっかりしなきゃ!」って思ったよ”。

 長岡は、あらゆる腕利きミュージシャンと共演してきている。それぞれタイプが違っても合わないということはないらしい。というより、合うようにアジャストしていくのだという。

“みんなウマいけどタイプは違う。島ちゃん(島村英二/d)とヤマキンは違うし。でも何回かやってると、その人のクセがわかるじゃない。だからタイミングをその人に合わせていく。たとえばオカモッチ(岡本郭男/d)とかだと、タイミングがちょっとうしろにくる。今はもう意識してないけど、初めてオカモッチとレコーディングしたとき、必ず自分のほうが前にいくから、「あれ?」って思ってさ。それでほんの少し遅めのタイミングで弾いてみたら、バッチリ合った。そういうことってあるんだよ”。

SHŌGUNとしてデビューし、アメリカの音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』に出演した際の一幕で、この日に出演したビーチ・ボーイズとともに(右端が長岡)。衛星中継により日本でも放映された。(写真提供:長岡道夫)

怖くて学びになる鍵盤弾き

 そしてスタジオで長岡が最も気にするパート。それはキーボードだという。

“キーボードの人ってサウンドを握ってるからね。曲のアレンジャーだったりする場合も多いし。ある意味一番怖い。だからリクエストをよく聞いてプレイしてる。たとえば深町(純/k)さんとレコーディングしたとき、自分の判断でベース・ライン動かしてみたら「あれ、ベースそう動くんだ」って言うの。一瞬マズかったかな? って思ったけど、そうじゃなくて、「そうやるんなら俺も合わせるよ」って言ってくれた。つまりちゃんと聴いてるの。キーボードってそういうパートなんだって勉強になった。それ以降、キーボードを弾いてる人の気持ちとかを気にするようになったよ。それは大谷(和夫/k, arr)さんに対しても同じだね”。

 森山良子のサポート・バンドからSHŌGUN、そして西城秀樹のサポート時代と、長岡とは長い付き合いの大谷は、長岡のベースを最もよく知る人物のひとりだった。

“いろんな人と一緒にやってるけど、大谷さんとは若い頃から一緒だった。(森山)良子ちゃんのときに一緒になって仲良くなって、すぐ家族ぐるみで付き合うようになった。その後(芳野)藤丸(g)や山木と会うようになったのも大谷さんが引き合わせてくれた。大谷さんは僕にとってキーマンだった”。

 そしてもうひとり、長岡のキーマンとなったキーボード・プレイヤーがいる。「ルパン三世」でお馴染みの大野雄二だ。

“大野さんからの影響はコードだね。いろんな響きのコードを使うから、それによってベースの位置が変わるんだよ。逆にいうと、ベースがここに行きたくなるからこういうコードになってるんだってことに気付づかされるわけ。だったら余計な音はいらないって。そこが大野さんと一緒にやっておもしろかったところ。大野さんのコードの作り方は独特なの。当時サポートでやってた森山良子や松山千春とかの音楽とはぜんぜんタイプが違うから、求められるものも違う”。

ノらない仕事

 長岡は滅多にネガティブなことを言わない。芳野藤丸も長岡に対して同様のことを語っているが、それでも下世話なレポーターよろしく、お酒が2〜3杯くらい入ったタイミングで、モチベーションが落ちるセッションはなかったのかと、食い下がってみた。

“ああ、こないだ15曲録ったんだけど、全部カバーでね。主役の歌手はスタジオに来ない状態。そういう環境でやらされると、はっきり言ってつまんないよ。カバーだから元の音源をコピーしなきゃいけないでしょ? それでカラオケ作ってるだけ。そんな感じだとさ、曲に命を吹き込もうとか、いい感じを出そうとかできないわけ。感動を受けて出す音ってのは、たとえば本人が来て歌ってくれたりさ。山口百恵ちゃんのときみたいに(本誌2021年2月号参照)。そういうことがあると、思わず「ありがとう!」って気持ちになって、やる気が出るけど、そうじゃないとなかなか難しいよね”。

 ついでにリズムの好き嫌いや、得手不得手などについても聞いてみた。

“うーん、そうだな。スタジオで演歌の仕事が増えた時期があってさ。それもテンポ60くらいのド演歌(笑)。そんな譜面ばっかり目の前にしてた時期ね、「あー、このテンポでずっと弾いてたら、俺は死ぬな」って思ったよ(笑)。僕はいろんなリズムが好きだし、それを複合してプレイするのが好きなんだよ。だから、できるならいろんなリズムをやりたい。4ビートも、前はできないと思ってたけど、今は挑戦したいと思ってる”。

この人を支えたい!

 逆に、モチベーションが上がった曲やアーティストは、たくさんいると言う。そのなかで長岡は、もう一緒にプレイできなくなってしまったふたりのアーティストをあげた。そのひとりは西城秀樹。

“ヒデキとは、テレビの仕事もよくやったけど、テレビだとベースの音なんてほとんど聴こえないよね。だからライヴでは、そのぶん低音を効かせたいじゃない? ヒデキもそうしたかったみたいで、エンジニアもそれをわかってくれてた。だからいつもベースがデカいの(笑)。もうリハから「こんなデカくて大丈夫?」っていうくらいデカかった。でもそれでヒデキが歌いやすいって喜んでくれる。最高の気分だよ”。

 そしてもうひとりは、日本のポップス史に残る稀有なクリエイター、大瀧詠一(vo)だ。

“大瀧(詠一)さんのナイアガラ(レーベル)に参加できたのは自慢のひとつ。何といっても曲がいいから、僕はいつもやる気満々だったよ。いろんなメンバーとずっと一緒に録音してたけど、いつもみんなを支えるつもりでやってたよ。ヒデキもそうだけど、大瀧さんのバックでベースを弾くのは本当に楽しかった。感謝の気持ちを持ちながら、刺激的な挑戦もできたから”。

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