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追悼 – クマ原田

  • Text:Foomy Koyasu

3月22日、世界を股にかけ活躍したベーシストのクマ原田の逝去の知らせが届いた。ここでは本人と親交が厚く、2012年には本誌でクマへのインタビューも手がけたベーシストの子安文にクマ原田の功績を振り返ってもらった。改めて彼の足跡をたどることで、巨星に想いを馳せたい。

日本のベースを世界に拓いた先駆者

2023年3月21日の夜、ロンドンの親友からの知らせでクマ原田さんが亡くなられたことを知った。つい二週間前まで元気そうに演奏していたので信じられなかった。翌日のFacebookには、英国、ドイツ、日本という順番で彼の追悼投稿が相次ぎ、3月22日には公に追悼が発表された。クマ原田。享年71歳。
 
1951年6月に北海道札幌市に生まれたクマは、身体も精神も日本人らしくない大柄なベーシストだ。日本では原田時芳の本名で、コーラス団“シング・アウト”のベーシストとしてNHK『ステージ101』へのレギュラー出演でキャリアを積んだ。その頃からヨーロッパの芸術に関心を抱き、1971年にシベリア鉄道でミュンヘンに渡り、ミュージカル『ヘアー』にベーシストとして参加。西ドイツ中を回り、6ヵ月のアムステルダム滞在を経てロンドンに移住した。その後はたびたび日本に呼ばれることもあったが、拠点をヨーロッパに置いた。

2012年6月号では自身のルーツについて語ってくれた。


クマのプレイを最初に聴いたアルバムはピーター・グリーンの『In the Skies』(1979年)だったが、当時のアルバム・クレジットには“KUMA”としか書かれておらず、私はアフリカ系の女性ベーシストかと思い込んでいた。同年、彼はミック・テイラーの『Mick Taylor』にも参加。1974年にはフォークロック系シンガー・ソングライター、ジョナサン・ケリーとのスタジオ・ワークを通じてスノウィー・ホワイト(g)と出会い、晩年までともに活動した。

1976年には英国のファンク・バンド、ゴンザレス(Gonzalez)の一員としてボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのツアーに参加。1977年には「Haven’t Stopped Dancing Yet」でヒットも出した。また同年、イアン・デューリーの『New Boots and Panties』、ジンジャー・ベイカーの『Eleven Sides of Baker』、1978年にヴァン・モリソンの『Wavelength』、1980年にケイト・ブッシュ「December Will Be Magic Again」に参加した。

1980年にはインコグニートのドラマーのリチャード・ベイリー、ウィンストン・ディランドロ(g)、ジェームス・ラッセルズ(k)とともにジャズ・ファンク・バンドのブレックファースト・バンド(The Breakfast Band)を結成、その年にリリースした「LA14」は全英ダンス・チャート1位を飾った。1982年には、クラシック、民族音楽、現代音楽を合体させたギタリスト兼作曲家のサイモン・ジェフスによる楽団ペンギン・カフェ・オーケストラの一員として来日もしている。同年、ソウル歌手のビリー・オーシャンのアルバム『Inner Feelings』に参加。翌年にはスノウィー・ホワイトのシングル「Bird Of Paradise」をプロデュースし、全英チャートで6位に達した。

その後1985年には沢田研二の全国ツアー、1986年にはシンガー・ソングライターのクリス・レアのヨーロッパ・ツアーに参加。1980年代後半以降も多数の著名ミュージシャンとの共演を果たし、ニック・カーショウ、クリス・ファーロウ、アネット・ピーコック、ラファエル・ラヴェンスクロフト、ディック・モリシー、チャス・ジャンケル、ポリー・スタイリーン、リンダ・ルイス、スティーヴ・ハーレイ、布袋寅泰、今井美樹など、そのリストは尽きない。

2016年にスティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベルのツアーに参加していたクマ原田。スティーヴ・ハーレイは3月22日に以下の訃報を報告している。“ベース・プレイに関しての彼は見事な名人としか言い表わせないレベルだった。誰しもがツアー・バスやステージを共有したくなる優しさ、気配り、ユーモアの持ち主だった。父親、祖父、すべてにわたって立派な人間が、我々のもとから奪われてしまった。これから彼なしで僕はとてつもなく寂しくなるだろう。バンド・メンバー全員もだ。彼と会ったことのある人は必ずその温和な人柄に心を打たれた”。