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    追悼 – ティム・ボガート

    • Text:Jun Kawai
    • Interview:Ryo Takahashi(Bass Magazine 1994 JAN), Akira Sakamoto(Bass Magazine 2003 APR)

    ベーシストとしての技を磨いた
    ヴァニラ・ファッジ〜カクタス時代

     カーマインを迎えてパワーアップを図ったヴァニラ・ファッジは1967年6月22日にライヴハウスの殿堂、フィルモア・イーストの前身にあたるヴィレッジ・シアターで、ザ・バーズなどのオープニング・アクトとしてステージ・デビューを飾る。同月にリリースされたデビュー・シングルの「You Keep Me Hanging On」(スプリームスのカバー)がいきなり全米チャート最高6位にランクインすると、アルバム『Vanilla Fudge』(1967年)もヒットを記録。「Keep Me Hanging On」のほかにアルバムは、ビートルズの「Ticket to Ride」と「Eleanor Rigby」、ソニー&シェールの「Bang Bang」などカバー曲が中心となっていたが、オルガンを軸にした独特なサウンドに加え、ティムの派手なベース・プレイも楽曲の聴きどころとなっており、バンド同様にティムの存在も徐々にクローズアップされるようになったのであった。

     その後、ヴァニラ・ファッジは2作目の『The Beat Goes On』(1968年)、3作目の『Renaissance』(1968年)、4作目の『Near The Beginning』(1969年)、5作目の『Rock & Roll』(1969年)と立て続けにアルバムをリリースしたものの、バンド内には徐々に不協和音が流れるようになる。そんな折り、ギタリストのヴィンス・マーテルが急病となり、予定されていたコカコーラのCMソングのレコーディングに参加できなくなったことで、代役としてジェフ・ベックが呼ばれ、ティムとカーマインはベックと共演が実現。以前からお互いのプレイを気に入っていたこともあって、意気投合した彼らは、ニュー・グループ結成へと動き出すのだが、その直後、ベックが自ら運転する車で交通事故を起こし、入院しなければならない事態に陥ってしまう。ベックの回復のめどが立たなかったため、ベックとのグループ結成をあきらめたティムとカーマインは、新たに元ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズのジム・マッカーティ(g)と元テッド・ニュージェントでアンボイ・デュークスのヴォーカリストのラスティ・デイ(vo)とともにカクタスを結成。彼らは1970年5月にテンプル・ユニヴァーシティ・フェスティヴァルのステージでデビューを果たしたあと、同年に『Cactus』をリリースする。

     

     ブルースのエッセンスを感じさせるハード・ロックと、エネルギッシュな演奏を特徴にした彼らだが、ティムとカーマインのリズム体のコンビネーションはさらなる磨きがかかっており、ティムのテクニカルなベース・プレイも話題となる。さらにカクタスは2作目の『One Way…Or Another』(19171年)、3作目の『Restrictions』(1971年)、メンバーがワーナー・フリッチング(g)、元アトミック・ルースターのピート・フレンチ(vo)に代わって、4作目の『’Ot ‘N’ Sweaty』(1972年)をリリースしたものの、ティムとカーマインはカクタスに限界を感じ始めるなか、再びジェフ・ベックから自分のバンドでプレイしてほしいという連絡をもらう。彼らはすぐにそのオファーに同意すると、1972年8月からのジェフ・ベック・グループのアメリカ・ツアーに、脱退したコージー・パウエル(d)とクライヴ・チャーマン(b)の代わりに参加した。

     ツアー終了後、残りのメンバーも脱退し、ジェフ・ベック・グループはティムとカーマインを含めた3人になってしまう。当初フリーのポール・ロジャースをヴォーカルに迎え入れる計画を立てたが、これに失敗したため、メンバー各自がヴォーカルも担当することを決意。そしてバンド名もジェフ・ベック・グループからベック・ボガート&アピス(BB&A)と変え、彼らは同年9月からツアーを開始したのだった。

     荒くれベースと天才ギタリストが合体した、
    黄金のロック・トリオ-BB&A

     ツアー終了後の1972年11月末からレコーディングをスタートさせた彼らは、デビュー・アルバム『Beck, Bogert & Appice』(1973年)を発表する。クリームの後継者と絶賛されたこの作品により、ジェフ・ベックという新たなパートナーを迎え、その才能をさらに開花させたティムだが、1973年5月に行なわれた来日公演(このときの大阪公演の様子は1973年発表のアルバム『Live In Japan』としてリリースされている)から帰国後、オートバイ事故で重傷を負うというアクシデントに見舞われ、バンドはその後のツアーをすべてキャンセルせざるを得なくなる。そして長いオフのあと、セカンド・アルバムのレコーディングを開始するが、納得できるものが作れなかったことで一時中断。その後イギリス・ツアーに出るが、レコーディングからぎくしゃくした関係にあったジェフとティムがついに衝突する。バンドは2ndアルバムをリリースすることなく、1974年に自然消滅してしまう。

    セッション活動と並行して行なった
    ティム流パワフル・スタイルの伝導

     その後、ティムはフォーカスのヤン・アッカーマン(g)のソロ・アルバム『Tabernakel』(1973年)、ボ・ディドリー(g)の『The 20th Anniversary Of Rock ‘N’ Roll』(1976年)でプレイしたあと、ボクサーに加入し、アルバム『Absolutely』(1977年)を発表。さらにビリー・コブハム(d)らと参加したボビー・アンド・ザ・ミッドナイツやリック・デリンジャーとツアーをするなど、ライヴ活動も精力的に実施する。

     1980年代に入ると、ロッド・スチュワートの『Foolish Behaviour(邦題:パンドラの匣)』(1980年)でプレイしたティムは、初のソロ・アルバム『Progressions』(1981年)と『Master’s Brew』(1983年)をリリース。その合間にヴァニラ・ファッジがベスト・アルバムの発売に合わせて再結成ツアーを実現させると、1984年には15年ぶりとなるアルバム『Mystery』も発表する。さらに1988年6月にアトランティック・レコード創立40周年記念コンサートにも参加し、レッド・ツェッペリンなどと共演を果たしている。それ以降のティムは、ハリウッドにある音楽専門学校MIのベース学科(BIT)の講師として活動するかたわらで、X JAPANのギタリストPATAの『PATA』(1993年)、グレイト・ホワイトのヴォーカリストであるジャック・ラッセルの『Shelter Me』(1996年)といったアルバムでプレイすると、1999年12月にはCharとカーマインとともに結成したCBA(Char, Bogert & Appice)で日本ツアーを実施する。このプロジェクトは、1998年7月に日本のテレビ番組でCharとカーマインが共演したあと、1999年2月のヴァニラ・ファッジの来日公演にCharが飛び入りしたのを機にスタートしたもので、そのツアーの様子はアルバム『CBA LIVE』(2000年)で聴くことができる。

     また2001年には古くからの友人であるリック・デリンジャー(g)とカーマインとともにDBA(Derringer, Bogert & Appice)を結成し、アルバム『Doin’ Business As…』を発表すると、2002年にはヴァニラ・ファッジが16年ぶりのアルバム『The Return』をリリースし、ツアーを実施。さらに2005年にヴァニラ・ファッジはオリジナル・メンバーでツアーを行なったあと、2006年にカクタスの再結成が実現し、24年ぶりとなるアルバム『Cactus V』(2006年)も発表する。

    ツアー引退後もまっとうしたベーシスト人生

     2008年にカクタスを離れたティムは、マイク・オネスコ(g, vo)とエメリー・セオ(d)とともにオネスコ・ボガート・セオ・プロジェクトで『Big Electric Cream Jam』(2009年)を発表したが、2010年にバイク事故がきっかけとなり、ツアーからの引退を発表。ヴァニラ・ファッジからの脱退も余儀なくされる。その後、ディープ・パープルのドン・エイリーらによって結成されたスーパー・グループ、ハリウッド・モンスターのアルバム『Big Trouble』(2014年)のレコーディングや、インターネットでセッションワークなどを行なっていたが、2021年1月13日に長い闘病生活の末に癌により76 歳で他界。彼が残したアグレッシブかつ繊細なベース・プレイの数々は、今後も数多くのロック・ベーシストに影響を与え続けることだろう。

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