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追悼 – 加部正義
- Text:Yuichi Gamo
- Interview:Yusuke Mikami(Bass Magazine 1996 MAY), Hisayoshi Ishihara(Bass Magazine 2004 DEC)
- Photo:Eiji Kikuchi
最後に『ベース・マガジン 2004年12月号』より、ザ・ゴールデン・カップス再結成、加えてジョニー、ルイス&チャーの『FREE SPIRIT』完全版リリースのタイミングにて“ベーシスト、加部正義”の肖像に迫った記事の一部を抜粋してお届けする。
とりあえずベースは楽だなぁと思ってるぐらいだったよ。
それにとにかく弾いているのが楽しかったからさ。
「子供の頃は、勉強が嫌いで、海遊びや山遊びが好きだったなぁ。大抵はひとりで遊んでいるほうが好きだった。小さい頃から気を使うタイプだったからね(笑)」(加部)
母親が音楽好きで家にはいつも最新のレコードが流れていたという。土地柄もあって、幼少の頃から豊かな音楽環境に囲まれて育ってきた加部少年は中学に入ると家にあった古いアコギをつま弾き始める。近所には当時まだ珍しかったフェンダー・ギターを持つ外国人もいたのだという。アコギでいくつかの循環コードを覚えた加部は、やがてエレキに持ち替え、ベンチャーズやビートルズのコピーに励むようになった。高校に入ると、学校そっちのけでバンドに打ち込みようになり、のちにカップスのメンバーとなるケネス伊東と、基地での演奏(ベースまわり)や勝ち抜きエレキ合戦(個人賞を受賞)に出場したりと、とにかく夢中になってギターをかき鳴らしていたのだという。
「自分がギターに向いてるかなんて、考えなかったよ。とにかくやってるのが楽しかった。それにベースまわりをやると、高校生にしては破格のギャラがもらえるんだ。だから真面目に就職しようなんて考えなかった。学校にもタクシーで行っていたからね(笑)」(加部)
18歳の加部は、ギタリストとしてだけではなく、ベーシストとして“平尾時宗とグループ・アンド・アイ”(のちのザ・ゴールデン・カップス)へ加入することになる。エディはもともとのメンバーであり、サイド・ギタリストは、加部の師匠であるケネス伊東。ギタリストの席は空いていなかったが、ベーシストは空席だった。当時、本牧に目ぼしいベーシストもいなかったために、近所で評判のギター少年である加部に、幸運の白羽の矢が立ったというわけだ。
「ベースだからイヤだというのはなかった。とりあえずは当時はギターよりは楽だなぁと思ってるぐらいだったよ。弦が太いくらいでさ。それよりも、就職しないでお金がもらえるのが良かったし、メンバーもみんな好きな先輩ばっかりだったからね」(加部)
1968年3月にリリースされたファースト・アルバム『ザ・ゴールデン・カップス』は、デビュー・アルバムにして最高傑作と名高い作品だ。客寄せ的なシングル「いとしのジザベル」はともかく、収録曲はどれも今聴いても新鮮なものばかり。「青い影」や「モジョ・ウォーキング」「アンチェインド・メロディ」などのシブい選曲に加え、「ヘイ・ジョー」「銀色のグラス」などでの加部のベースが凄まじい。レッドゾーンを振り切ったままのスピード狂とでも言おうか、とにかく加部に興味がある若い読者には“百聞は一聴にしかず”と思って触れてほしいベース・トラックである。
「自分が好きな曲は楽しく弾いてるから、そういう感じになったのかもね。逆に歌謡曲とかは全然やる気がなかったし、何度やっても間違えちゃうんだ。それ以外はほとんど1テイクだったから、レコーディングは3、4日で終わったと思うよ。使っていた機材はヴァイオリン・ベースのコピー・モデルにエーストーンのアンプ。そのあとにエコーのロケット・ベースを使うようになったね」(加部)
Charと一緒にやるようになって
ベースってこう弾くんだなぁと思ったよ。
Char(g,vo)が、アイドルとして祭り上げられた時期の活動を終え、本格的なロック・バンドの結成を目論んでいた1978年。以前から“いつか一緒にバンドやりたい”と思いつつも、タイミングが合わずにいたふたりの男が、申し合わせたように再びCharの前に現われる。ひとりはジョニー吉長、もうひとりはCharにとっては“死んだはずの男”、加部正義だ。
“俺とジョニーと一緒にバンドやらない?”
“ああ、いいよ。俺ベース弾くの? 今ベース持ってないよ”
“うん、じゃあ用意するよ”
……という簡単な電話のやりとりによって、日本ロック史伝説のロック・トリオ、ジョニー、ルイス&チャーは結成された。
「Charとやるようになって、ベースってこう弾くんだなぁと思うところがあったね。Charは、使うコードも外人っぽいというか、センスが良くてオールマイティなギタリスト。ジョニーのドラムもほかとは違う感じだね。ドン!パン!と派手な感じじゃなくて、霧がかかったように流れていく感じ。何年か一緒にやって、だんだんしっくりいくようになったよ。それに3人バンドはいろいろ勉強になるんだ。音の隙間をどう埋めようかとかね。いろんなことを試してみて、結局、隙間は埋めなくてもいいことにも気づいたんだけどさ。まぁ、とは言っても研究なんかしたことないし、鍛えたつもりもないけど、長くやることで“慣れた”っていうのが一番大きいんじゃないかな」(加部)
加部を語るときに避けて通れないのが、ベース・プレイと同じく、その超然とした人柄だ。唯我独尊、不可侵、そのキャラクターがベース・プレイに好影響している部分は大きいだろう(というか、本来ミュージシャンはそうあるべきである)。加部に接した人が口を揃えて言うのは“マーちゃんは優しい”、“人間味溢れる人ですよ”という類のコメントだ。だが、そのいっぽう街宣車を怒鳴り散らしたりとか、暴れ出したら誰にも止められないとか、ある時期ゴールデン街で一番恐れられていた、というような逸話も残っている。この両極を瞬時に行き来するようメンタリティこそが、加部のアーティストたる所以であり、多くの人を惹き付けて止まない理由ではないだろうか。
音楽に選ばれ、時代に選ばれ、環境に選ばれ、人に選ばれ、ベースに選ばれ、もしかしたら神に選ばれ、加部正義という稀代のベーシストは形作られた。それらのめぐり合わせを我々は幸運な奇跡と捉え、今一度彼の残した表現に触れてみるべきではないだろうか。
『ベース・マガジン 2004年12月号』