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SPECIAL TALK SESSION – ミッキー吉野×亀田誠治×ハマ・オカモト(OKAMOTO’S)
- Interview:Yuichi Gamou
- Photo:Tetsuya Yamakawa
“想い”を乗せて現代に蘇った、時代を作り上げた名曲の輝き
デビュー45周年を迎えたゴダイゴのリーダーであり、アレンジャーやコンポーザーなど幅広く活躍するミッキー吉野の最新プロジェクト『ミッキー吉野“ラッキー70祭”【KoKi】』。そのなかから生まれたKoKi記念セルフ・トリビュート・アルバム『Keep On Kickin’ It』は、プロデューサーに亀田誠治を迎え、ハマ・オカモトを始めとした世代やジャンルを超えた幅広いミュージシャンたちが参加している。今回は、ミッキー吉野、亀田誠治、ハマ・オカモトの3人が集まり、アルバム制作を振り返りつつ、ミッキー吉野が日本の音楽界に残した功績について語っていただいた。なお、2022年1月19日発売のベース・マガジン2022年2月号にも3人の鼎談を掲載。本稿とは別内容でお届けするので、そちらも合わせてチェックしていただきたい。
芸能とテレビ文化の芽生えのケイオスの時期に
カップスだけ居心地が悪そうにしていた。━━亀田
━━アルバム『Keep On Kickin’ It』は、『ミッキー吉野“ラッキー70祭”【KoKi】』というプロジェクトから生まれた作品ということですが、亀田さんがプロデュースをすることになった経緯を教えてください。
吉野 2020年の夏頃、“世の中も沈んでいて閉塞感もいっぱいだから、元気になるために音楽をやりたいな”という話を亀田さんに連絡したんです。
亀田 ちょうど緊急事態宣言の真っ只中でした。いろいろなものが止まっているなか、ミッキーさんから“70歳になるので、音楽をやりたい”と連絡があって。
吉野 以前『日比谷音楽祭』で亀田さんと一緒にステージに立ったときに、とてもやりやすかったんです。音楽ってベースが重要なんですよ。ヒット曲で一番大事なのは、ベース・ラインやコーラスだったりする。そういう意味では、ベース・プレイヤーでプロデューサーでもある亀田さんが適任だった。
亀田 僕は昔からゴダイゴのファンで。ミッキーさんから、もしかしたらこれが自分の音楽人生で最後のアルバムになるかもしれないと言われたときに、すごくパッションを感じたんです。そこからデモを作ったり楽曲の選定をしたり、結局プロジェクトを始めてから1年以上がかかりましたね。
━━ミーティングはどのように?
亀田 最初のミーティングが2020年の9月11日で、リモートで行ないました。Zoomで何度もミーティングを重ねました。朝になってアイディアを思いついたらミッキーさんに着信を残して。お互い歳のせいか、せっかちになってすぐ伝えなきゃっていう感じで(笑)。そういうやりとりをずっとしていました。選曲とコンセプトを綿密に打ち合わせましたね。
・CDアルバム発売日:2022年2月2日
・配信開始日:2021年12月22日(水)午前0時〜
・iTunes Storeプレオーダーリンク:https://linkco.re/5DPmT8fU
・GODIEGO OFFICIAL WEB SHOP:https://tagcmusic.thebase.in/
・各配信サービス:アーティストへのリンク: https://linktr.ee/MickieYoshino
・Spotifyプレイリスト: https://spoti.fi/3v4ghXP
━━最初にレコーディングしたのはどの曲ですか?
亀田 実際に1曲目のレコーディングは「DEAD END 〜LOVE FLOWERS PROPHECY feat. STUTS & Campanella」で、今年に入ってからです。それはまだリモートで行なったので、ミッキーさんとレコーディングでお会いしたのは、「銀色のグラス feat. Char」をハマくんたちと録った日ですね。
ハマ スタジオでボーっとしていたら、目の前にミッキーさんがいたんですよ。
亀田 僕もミッキーさんはZoomで参加されると聞いていたので、目の前に“あれっミッキーさんが歩いている”って驚いて。
吉野 やっぱり「銀色のグラス」のレコーディングは行かなきゃいけないと思ってね。この曲は特にバンドの音にしたかったというのもあるし。
ハマ 亀田さんもあの日が初めてだったって聞いて、相当にコミュニケーションを密に取っていたんだなって思いました。初めて作業しているとは思えなかったので。
━━亀田さんとハマさんがゴールデン・カップスを好きになったのはいつ頃ですか?
ハマ 楽器を始めたての頃に、ウチのドラム(オカモトレイジ)の父親に聴かされたのが、「銀色のグラス」(1967年)とミーターズの「Cissy Strut 」(1969年)だったんです。それで度肝を抜かれて。好きな曲だから、今まで何度もコピーしようと思ったことはあったんですけど、何をやっているのかが本当にわからなくて。ニュアンスだけを取り入れることはあったんですけど、今回レコーディングに呼んでいただいて、気合いを入れ直してコピーしました。オリジナルとはキーは違いますが。
亀田 僕もあとからの振り返りです。僕はポップなものから入っていくので、「銀色のグラス」や「長い髪の少女」(1968年)あたりかな。でも、そのあとにライヴや洋楽のカバーを聴いていって、“この人たちがやりたかったことは何なんだろう?”って感じるんですよ。グループ・サウンズっていうくくりのなかで、この人たちはどこを目指していたんだろうって。ミッキーさんや加部(正義/b)さんのような、エッジの効いた個性があるミュージシャンが飛び出していった、ある意味オールド・スクールのようなバンドなんだなととらえていました。
吉野 そうだね。エディ藩(g)、デイブ平尾(vo)、柳ジョージ(g)もベーシストとしてカップスに参加していたし。
亀田 芸能とテレビ文化の芽生えのケイオスの時期に、ジュリー(沢田研二)やショーケン(萩原健一)なんかが出ているなか、カップスだけ居心地が悪そうにしていた。自分だけの印象かと思っていたら、ミッキーさんとお話を重ねるうちに、本当に居心地が悪かったんだなって。Char(g)さんも最初は「気絶するほど悩ましい」(1977年)や「逆光線」(1977年)のような歌謡曲風の曲で登場してきて。もちろん今振り返ると阿久悠さんの歌詞もすごくいい歌詞なんですけど。歌番組の『夜のヒットスタジオ』なんかで、エレキ・ギターがものすごくうまくてカッコいいなって思っていたら、最後にギターを投げちゃうのがすごく怖く感じたりもして。そういう居心地の悪い芸能への思い。そのルーツがカップスだと思いますね。
吉野 そこなんだよね。やっていたのは反発だから。レコード会社はオリジナルの曲で勝負させてくれないし、プロでやるにはある程度の妥協が必要な時代だった。
ハマ 僕はゴダイゴを聴いたあとにカップスを知って、これがグループ・サウンズと呼ばれるカルチャーのバンドなんだってたどり着くんですけど、カップスは明らかにほかのバンドとは違うじゃないですか。僕がカップスを知った当時、僕の学校の軽音楽部は邦楽のコピーは禁止されていたんです。先輩のやった洋楽を継承するのが決まりでクリームやレッド・ツェッペリンをカバーしていたんですけど、カップスの洋楽のカバーを聴いたときに、カップスも洋楽と同じだなと思ったんです。外国の音楽を自分たちなりにアウトプットしていたこんなカッコいいバンドが日本にいたんだと驚いた。だったら、もう洋楽を聴かなくていいじゃん、カップスを聴いておけばいいじゃんって。それに、なんか“不良”というか、“作曲家の先生”が書いた歌謡曲とかを“くだらねえ”と思ってやっているのが伝わってくるんですよね。僕は不良ではなかったですけど、ミッキーさんから歌謡に対する反抗的な気持ちを聞かせていただいて、子供ながらに思っていたことが答え合わせできて嬉しかった。ミッキーさんも不良だったんですか?(笑)
吉野 不良っていうのは、普通の人よりちょっと感受性が高いだけなんだよ。意外と正直な人も多いし、ごまかしてないんですよ。だから大変だったんだよね。
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