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勝矢匠が語るキャリアの軌跡〜yama、TOMOO、Little Glee Monster、藤井風らを支えてきたベーシストの歩み【インタビュー前編】
- Interview : Hikaru Hanaki
- Photo : Chika Suzuki
セッション・ベーシストの裏側に迫る「BMG (Behind the Masterful Groove)連載〜プロフェッショナルの裏側」連載。
今回は、藤井風の“Tiny Desk Concerts”をはじめ、yama、TOMOO、Little Glee Monsterなどのステージや録音を支えてきた勝矢匠。2025年には米津玄師×宇多田ヒカル「JANE DOE」にコントラバスで参加するなど、エレクトリックとアコースティックを行き来しながら活躍の幅を広げている。彼はどのようにしてセッションマンとしてのキャリアを紡いできたのか? これまでの歩みや機材について話を聞いた。
◎過去のセッションマン連載はこちらから

“でかい荷物を持って眼の前のエベレストを登るのか?”みたいなことを言われて、“登ってやるよ!”と
——音楽に興味を持ったのはいつ頃ですか?
最初にちゃんとハマったのはL’Arc-en-Cielでした。13才か14才の頃、当時やっていた『鋼の錬金術師』のオープニング(「READY STEADY GO」)がきっかけです。それでTSUTAYAでたくさんCDを借りて、ウォークマンに入れて聴いてました。
——そのときはまだ楽器は弾いていなかったんですか?
そうですね。でも、そこから1年くらいL’Arc-en-Cielをひたすら聴いていました。すると、剣道部の同級生もたまたま音楽にハマっていて、“一緒にバンドやろうよ”という話になったんです。自分はベースのtetsuyaさんが好きだったので、自然とベースを担当することになりました。たまたまドラムをやっている後輩もいて、ちゃんとバンドが組めたんですよ。それで文化祭に出たり、ライヴをやったりしていました。
——ほかにはどんな音楽を聴いていましたか?
中学校のときは洋楽ばっかりですね。ビートルズから順に古今東西のものを聴いていく感じでした。TSUTAYAや図書館でCDをたくさん借りていましたね。
——ラルクから洋楽に行ったきっかけは何だったんですか?
当時、近所にベースを教えてくれる教室が見つからなくて、近くの楽器店で紹介してもらったのが、“普段はギターを教えているけど、ベースも教えられるよ”という個人でやっている方だったんです。そこで、ベースの奏法というよりも、音楽全般をいろいろ教えてもらいました。
その流れでビートルズを聴くようになり、そこからレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど、ロックの歴史を遡るように聴いていったんです。図書館で“ロックの歴史”みたいな本を借りては、紹介されている作品を片っ端から聴いていました。そうして辿り着いたのがニルヴァーナで、そこにめちゃくちゃハマったんです。
——高校では軽音部に入ったんですか?
軽音部に入って、そこでMr.Childrenとか同時代の邦楽にも興味を持つようになりました。高1か高2の頃、高校のすぐ近くにあったジャズクラブに出会えたことも、大きな出来事でした。そこには学校をサボって通い詰めていましたね。当時、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやマキシマム ザ ホルモンの影響で“スラップ小僧”だった僕を可愛がってくれていた社会人の方ともジャズ・フュージョン・バンドを組んでいて、そのバンドでライヴをしたのがジャズクラブとの出会いでした。
——大学は、音大ではなく普通の大学にいったんですよね?
そうですね。入学してキャンパスを歩いていたら、サックスの音が聴こえてきて、ふらっと行ってみたら、ジャズ研があって。その頃にはジャズも聴いていたから、ジャズ研に入ることにして、そのタイミングでコントラバスも始めました。自分は当時“いろんな人と演奏したい”って気持ちが強かったので、ろくに授業も行かないで、いろんな大学やお店のセッションに行きまくってましたね。その頃に出会ったのが、江崎文武(k/WONK)とか石若駿(d)とか、新井和輝(b/King Gnu)、高木祥太(b/BREIMEN)で、今でもつながっています。
——卒業後の進路はどうしたんですか?
大学3年生くらいのとき、就職するのかすごく悩んだ時期がありました。そのタイミングで、高校のときに通っていたジャズクラブに遊びに行ったんですよ。そうしたら、なぜかわからないけど、高校の軽音部でヴォーカルをやっていた友達がそこで住み込みで働いていて。
彼に“最近、就職しようか悩んでるんだよね”みたいなことを言ったら、お互い酔っぱらってたんですけど、“お前はでかい荷物を持って眼の前のエベレストを登るのか? 登らないのか?”みたいなことを言われて、“登ってやるよ!”と答えて、よくわかんないんですが、それで決めました(笑)。
——それはすごいですね(笑)。就職しないで、まず最初は何をしたんですか?
お金をもらって演奏する仕事もちょこちょこあったんですけど、ライヴハウスのライヴに出てギャラをもらうっていうのだとまるで生活できないから、箱バンみたいなのをバイトで始めました。新宿にある生演奏カラオケのお店ですね。譜面が何千曲も置いてありました。
——そこではオールディーズの楽曲とかを演奏するんですか?
古今東西って感じですね。西野カナさんもあるし、サザンもあるし、みたいな。そもそもそれを始めたきっかけは、細野晴臣さんの経歴を読んでいたときに“箱バンやキャバレーで演奏していた”と書いてあったのを見て、自分もそれになろうと思ったんです。

——プロになる転機となったような仕事は何でしたか?
LUCKY TAPESでベースを弾いていたKeity(田口恵人)が急にライヴに出られなくなってしまってベーシストを探していたタイミングがあって、人づてにCRCK/LCKSの小西遼(sax)くんから“明後日、名古屋でライヴなんだけど出られない?”って連絡が来たんです。それですぐ“やります!”って答えて。
単発ではなく、大きいツアーに何公演か参加する形で、いわゆるメジャー・シーンの現場に関わったのはこれが初めてでしたね。譜面も音源を聴きながら全部自分で作って。そこから少しずつ知り合いを通して仕事が増えていって、ちゃんと仕事が来るようになったのはコロナ禍くらいからです。
——ご自身の活動に大きな影響を与えた現場はありましたか?
yamaさんのサポート現場は、自分の意識が大きく変わったきっかけだったと思います。あるとき、ジャズ界隈で仲良くしていた人から“yamaというアーティストのサポートをやるんだけど”と相談を受けて。それが、自分にとってプロジェクトの立ち上げ段階から関わらせてもらった、初めての現場でした。しかもメジャーの現場だったんです。
そこから、ただベースを弾くだけではなく、いろいろなことを考えながら現場に向き合うようになった気がします。それまでは誰かのピンチヒッターやたまにやる単発のライヴで呼ばれることが多くて、“自分の現場”と言えるものが、あまりなかったので。
——仕事への向き合い方も変わったのでしょうか?
まるで変わりましたね。yamaのチームは、どこかバンドのような雰囲気があって、いろいろ話し合いながら主体的にものづくりができる現場だったんです。“なんとかやっていこう”“一緒に頑張ろう”と言い合いながら進めていくような感覚でした。その経験があったからこそ、今ではどの現場に行っても、そういう心持ちで向き合えるようになったと思います。
◎インタビュー後篇はこちらから
「一番意識しているのはキックの音色と帯域」
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勝矢匠(かつや・たくみ)
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