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新井和輝(King Gnu)が語るベース・キャリアの全貌【インタビュー前篇】
- Interview:Shutaro Tsujimoto(Bass Magazine)
- Photo:Kosuke Ito
King GnuやMILLENNIUM PARADEでの活動のほか数々のセッション・ワークもこなし、卓越した技術とセンスで国内音楽シーンを代表するベーシストとして圧倒的な存在感を放つ新井和輝。ここでは、新井が本誌表紙を飾った本誌2024年5月号(SPRING)に掲載された、ベーシストとしてのキャリア総ざらいしてもらったロング・インタビューをWEB版として再掲する。
彼がどのようにベースを手に取り、仲間たちと出会い、低音、ひいては音楽に向き合ってきたのか……King Gnuでの輝かしいキャリアに至るまでの下積み時代、数々のセッション・ワーク、NewJeansとの共演まで、低音への洞察と音楽に対する真摯な姿勢が滲み出る明晰な語り口で、その半生を赤裸々に明かしてくれた。
※本記事は『ベース・マガジン2024年5月号』のコンテンツをWEB用に再構成したものです。
CHAPTER 1
ベーシストとしての原体験と
高校時代の運命的な出会い
今思えば、16〜17歳くらいで
人生のターニングポイントに
なるような出会いが全部起こっていて。
──音楽の原体験としては、ご両親からの影響が大きかったんですよね?
はい。特に母親がヒップホップとかR&Bを超好きな人で。家やカーステレオで常々かかっていたのが90年代のブラック・ミュージックだったので、そういう音楽への肌馴染みはもともとありましたね。
──自分の意思で最初に好きなった音楽は?
ASIAN KUNG-FU GENERATIONが最初でした。小3のときに『NARUTO -ナルト-』のオープニング「遥か彼方」で知って、親にCDをねだって買ってもらって。そこから『ワールド ワールド ワールド』(2008年)くらいまでは全部のCDを買っていましたし、とにかく聴きまくってました。
──ブラック・ミュージックを自分から聴くようになったのはいつ頃ですか?
中3の終わりくらいにYouTubeのオススメで出てきたヴィクター・ウッテンの動画を観たのがきっかけだったかな……。
──その頃、ベースは始めていたんですか?
ベースを始めたのは中2です。中3でRADWIMPSにハマったんですけど、RADの「遠恋」(『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』収録/2006年)などで初めてスラップの存在を知って。そこからMASAKIさんの著書『ベース・マガジン 地獄のメカニカル・トレーニング・フレーズ』を読み始めたり、どんどんテクニカル志向になっていきました。
──RADWIMPSといえば、武田(祐介)さんの影響でヤマハの5弦、ネイザン・イーストのシグネイチャー・モデルを使ってたんですよね?
そうですね。高校に入るタイミングの入学祝いで買ってもらいました。
──アジカンやRADWIMPSのようなロック・バンドで音楽に目覚め、関心がベースのテクニックに移っていき、いろんなベーシストを知るなかで音楽の幅も広がっていったという感じでしょうか?
それこそベース・マガジンの存在も大きかったと思います。高校のときにヴィクター・ウッテンの『Palmystery』(2008年)のインタビューが載っている号を買ったんですけど、そこでミシェル・ンデゲオチェロのことを知って、当時リアルタイムだった『The World Has Made Me The Man Of My Dreams』(2007年)のCDを買いに行ったり。あとはやっぱりYouTubeは大きくて。中3くらいのときにYouTubeが普及し始めたんですけど、毎晩わけもわからずに櫻井哲夫さんやヴィクター・ウッテンの動画とかを観まくっていたので(笑)。
でもブラック・ミュージックの本当の入り口になったのはTSUTAYAに通い出してからかな? TSUTAYAの店員さんにすごく洋楽好きのお姉さんがいたんですけど、その人が“これが好きなら、次はこれを聴くといいよ”って感じで次々とR&Bやソウルの名盤を教えてくれて。
──すごい出会いですね。例えばどんなものを教えてもらったんですか?
たくさんあるんですけど、強烈にインパクトに残ったのがディアンジェロの『Live at the Jazz Cafe, London』(1998年)とエリカ・バドゥの『LIVE』(1997年)ですね。ディアンジェロのライヴ盤を聴いたのが高1のときで、初めてブラック・ミュージックを意識した作品だったと思います。
──師事していたベーシストの日野“JINO”賢二さんに出会ったのも高校時代だと思いますが、きっかけは何だったんですか?
高校に上がって軽音部に入るんですけど、先輩があるとき“そんなガシガシ弾くんだったらジャズのライヴでも観に行く?”って連れて行ってくれたのが調布のGINZというライヴハウスで。それからお店に通うようになるんですけど、あるときJINOさんが出る日があって。“わ、ベース・マガジンの表紙の人が来るじゃん!”と思って観に行ったら衝撃を受けちゃって。そこからJINOさんのライヴに通うようになり、顔を覚えてもらって、という経緯だったかな。17歳から22歳くらいまで師事していました。
──高校時代には福生のライヴハウス“チキンシャック”にも出入りしていて、そこで岡田拓郎(g)さんや君島大空(g)さんと出会ったんですよね?
チキンシャックも、同じく高校の先輩たちに誘われて高1から行き始めました。先輩に“ベース貸すから弾いてごらんよ”って急に言われて飛び入りでセッションに参加したこととか、すごく覚えていますね。
──そのあたりからセッションの経験を積んでいくんですね。
セッションに関しては、もうひとつ大きい出会いがあって。高2のときにさっきのTSUTAYAの店員さんが“実は私のダーリンも音楽をやっていて、和輝に会いたがってるんだけど”って話をしてくれて。それが斎藤デメさんというギタリストの方でした。会いに行って、当時めっちゃ練習していたジャコ(パストリアス)の「Donna Lee」を弾いて見せたら、“今度一緒にライヴやろうよ”って言ってくださって。それで福生駅の前にあるカレー屋“ごん”でやったのがいわゆる初めてのセッション・ライヴでしたね。そのときのサインはまだお店に残ってますよ(笑)。そのあともデメさんにはずっとお世話になっていて、King Gnuが忙しくなる27歳くらいまで10年ほどデメさんのバンドで一緒にやらせてもらっていました。
──この時期に重要な出会いが立て続けにあったんですね。
今思えば、16〜17歳くらいで人生のターニングポイントになるような出会いが全部起こっていて。それこそ師匠の河上修さんを紹介してくれたのもデメさんなので。大学に入るときに“大学生になったんだからウッド・ベースでもやってみたら?”って河上さんを紹介してくれて。だからTSUTAYAでの出会いがなかったら、河上さんにも会えていないし、それこそ(常田)大希に会ったのも河上さんの家で住み込み修行をやってるときだったので。チキンシャックで岡田拓郎さんや君島大空と仲良くなったのもこの時期ですし。
──年齢的には、岡田拓郎さんは新井さんの1個上、君島大空さんは2個下ですよね。
そうですね。拓郎さんは実家がめちゃくちゃ近くて、徒歩4分ぐらいだったんです(笑)。チキンシャックには若い人が全然いなかったので“お、なんか若い人がいる”っていう感じで仲良くなりました。そのあと、俺が高3のときにチキンシャックに出入りし始めたのが高1の君島。当時はおデブちゃんでしたけど(笑)。
──全然想像できないです(笑)。
ポッチャリしてて、サー(Suhr)のギターをめっちゃ高く構えてスウィープとか速弾きしてるギタリストでした(笑)。
──今も一緒にやっている高井息吹(vo,k)さんと出会うのもこの時期ですか?
息吹ちゃんは厳密に言うと大学に入ってからなんですけど、高校生の頃から俺のことを知ってくれていたみたいで。
──CINRAのインタビューで、高井さんが新井さんのことを“高校生のときから西多摩のほうでは有名だった”と話してましたね。
らしいですね(笑)。そのことは露知らずでしたけど……面識ができたのは大学2年生とかだったと思います。
CHAPTER 2
セッション・シーンで広がる人脈、
Srv.Vinciへの加入
最初はサポートで呼ばれてたんですけど、
“メンバーになりたいんだけど”って
連絡したのは俺なんですよ。
──昨年(2023年)10月、NewJeansの日本でのライヴで新井さんがベースを弾いていたことが話題になりました。そのときのメンバーは、SANABAGUN.の磯貝一樹(g)さんと大樋祐大(k)さん、AIさんなどのバックで叩いているSoy(d)さんでした。磯貝さんとSoyさんとは、かなり古くから関係がありますね?
学生時代からですね。磯貝くんなんて本当に一番古いミュージシャン仲間で、18歳頃からの付き合いです。磯貝トリオのベースもやってたし、(勢喜)遊と磯貝くんと俺でよくセッション・ホストもやっていましたし。SoyくんとはDESHIMENT3っていう小室響(p)くんとのトリオで横浜のドルフィー(Jazz Spot DOLPHY)でよくライヴをやっていました。
──新井さんのまわりの1992年生まれの世代って、セッション・シーンから登場したミュージシャンがすごく多いですよね。
この世代は特に多いですよね。NewJeansのときのメンバーは磯貝くんが呼んだメンツなんですけど、普段はみんなそれぞれの場所で頑張っていて、こういう機会でまた一緒になれたのはすごく嬉しいことですよね。
──学生時代にセッションをやっていた時期の時系列ってどんな感じですか?
遊や磯貝くんとセッション・ホストをやっていたのは最初期だから19〜20歳のとき、DESHIMENT3や磯貝くんとギグをやってたのが22〜23歳、Srv.Vinciに入ったのもその時期です。Srv.Vinci時代はわりとセッションにも入っていて、King Gnuに改名するタイミングで少しずつ1個のバンドにシフトしていった感じでした。
──Srv.Vinciへの正式加入が2015年7月なので22歳、King Gnuへの改名が2017年4月なので24歳のときですね。勢喜遊さんに出会ったのはいつ頃ですか?
遊とは大学2年生のときに西荻窪Clop Clopで出会いました。そこから遊がどこかのセッションで大希と出会って、大希を紹介しくれて、という流れでしたね。
──新井さんは横浜の関内にあるライヴハウス“KAMOME”にて元SOIL&“PIMP” SESSIONSの元晴(sax)さんのセッションにも出ていたそうですが、常田さんとはそこで初めて会ったんでしたっけ?
元晴さんが家でパーティするみたいな日があって、遊がそこに大希を連れてきたんです。それが初対面だったんですけど、同い年だし、お互い遊から話は聞いてるしってことでスタジオに入る流れになって。そのとき俺がボスのOC-2(オクターバー)で、原音をカットしてオクターヴだけ出してシンセ・ベースみたいな音で弾くのをやっていて、“それめっちゃいいね!”ってなったのを覚えています。
──そのときから、エレベでシンベ的なアプローチをやってたんですね。
やり始めた頃ですかね。大希はどっちかというとシンベ派なので、それを気に入ってくれたんじゃないかなって俺は勝手に思ってるんですけど。
──正式加入はどういう流れだったんですか?
最初はサポートで呼ばれてたんですけど、“メンバーになりたいんだけど”って連絡したのは俺なんですよ。そのときに背中を押してくれたのはベーシスト仲間の山本連くん。たしか連くんと飯を食ってるときに、“そんなにいい感じならもうメンバーになっちゃえよ、ほら今連絡しよう!”みたいになって(笑)。そういう始まりだった気がします。
──常田さんの出会った頃の印象は?
セッション・シーンの人って、当たり前だけど仕事が欲しいじゃないですか。だから“いいヤツ”になろうとするんですよ。自分も含めてですけど。だけど大希はそういうアティチュードを全然持ってなくて。当時から今のあの佇まいのまんまだったから、けっこう得体の知れない感じがありました(笑)。
──常田さんがベースもすごく弾ける人だということは、あとから知りましたか?
最初にスタジオ入るまで、どんな音楽をやってるのかもあんまり知らなかったので。だからベーマガのプレイヤーズ・コンテストで準優勝してたのを知ったときは驚いて。そのとき副賞でもらったSugiのベースを貸してもらったことがあるんですけど、弦の巻き方とかがもうグチャグチャで。やっぱりプレイヤーじゃなくて根がアーティストだから、そういうところにはまったく目が行かないというか、大希らしいなって(笑)。
──その頃の常田さんとの音楽的な共通言語というと、ロバート・グラスパー(p)のような現代のジャズとかですか?
グラスパーはありましたね。あとジェイムス・ブレイクみたいなエレクトロニックな音楽もお互い好きだったと思います。逆にジミヘンとかディープ・パープルとかレッチリとか、ロックでの共通項はなかったです。そこは遊のほうが多いかな。俺の場合はブラック方面やジャズ的なものでの共通項が多かったですね。
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CHAPTER 3:音楽家としての幅を広げた
ジャズやエレクトロニックからの影響