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INTERVIEW − イアン・ヒル[ジューダス・プリースト]
- Question:Gentaro Ymamoto
- Translation:Tommy Morley
- Photo:Shigeo Kikuchi
結成50周年! “メタル・ゴッド”の低音哲学
2020年に結成50周年を迎えた“メタル・ゴッド”ことジューダス・プリーストが、それを記念したボックス・セット『50 Heavy Metal Years Of Music』を全世界3,000セット限定で発表した。138曲もの未発表音源を含むCD42枚組というヴォリューム感で、“メタルの軌跡”を存分に堪能できるアイテムだ(ボックス・セットから未発表ライヴ音源9曲含む16曲をセレクトしたハイライト盤『リフレクションズ~ヘヴィ・メタル50年の軌跡』も発売)。世界的パンデミック下で延期を余儀なくされていた50周年ツアーもついに9月から開幕。その直前に、イアン・ヒルにコンタクトすることができた。10月19日発売のベース・マガジン2021年11月号には、自身のベース・プレイや機材について語ったインタビューを掲載しているが、ここではジューダス・プリーストの歴史を振り返ってもらった。
当時聴いていたさまざまなバンドから僕らは影響を受けていた。
僕らはほとんどの音楽が好きだったと思う(笑)。
━━ジューダス・プリーストの結成から50周年ということでおめでとうございます。この50年はあなたにとってどんな時間でしたか?
本当に一瞬で過ぎ去ってしまったような感覚だね。こうやって多くの人から50年もの時間が経過したって言われると“本当に?”って思うところがあるし、楽しんでいるときって時間がすぐに過ぎ去っていくことを実感させられるよ。だから50年も経ったっていう実感はないかな。
━━あなたはバンドのすべてを見てきた唯一の創設メンバーですが、バンドの成功に確信を持てたのはいつ頃ですか?
んー、いつだろうなぁ……。1stアルバムをレコーディングして、自分が聴いてきたバンドのアルバムと一緒にそれがレコード店の棚に並んでいたのを目にしたときは、最高に誇らしい瞬間だったよ。クリームやジミ・ヘンドリックス、ビートルズにストーンズ、フリートウッド・マックといった、あの時代を席巻したバンドたちと一緒に並ぶなんて本当に光栄だった。それは今でもずっと変わらないね。
━━バンドの存続に危機感を抱いたときはありましたか? 1993年にロブ・ハルフォード(vo)が脱退したときにはすぐにバンドの存続を決断できましたか?
あれはとても難しい時期だったね。でも、かなり初期のアル・アトキンス(vo)がバンドを抜けたときにも同じようなことが起きていた。バンドが二分してしまってドラマーのクリス・キャンベルも離れることとなった。あのときはロブが彼のドラマーだったジョン・ヒンチを連れてきてくれたけど、ロブが抜けたときにも似たような感覚になったよ。当時はスタジオかツアーのどちらかにいるのが当たり前の生活を繰り返していて、僕らはみんな疲れ切ってしまっていた。家族を持つようにもなって生活が変わり、僕らは1年間のオフを取ることにした。子どもたちの世話をしながらバッテリーを充電することを選んだけど、ロブはどうしても活動を止めたくなくて、それがきっかけで彼はソロ・キャリアを歩むこととなった。バンドにとってはどん底にいるような停滞期だったし、ほぼ活動がストップしているような状況だったよ。それでもいつしか自分たちがやってきたことが自分たちの愛していることだと認識し、ロブを除いたみんなで集結して再始動することにした。そこでティム“リッパー”オーウェンズ(vo)を見つけ、かつてとは違う形ではあったけど新たに歩み出したんだ。それでもあの時期は僕たちにとって、低空飛行をしていた頃だと認めざるを得ないね。
━━デビュー・アルバムである『Rocka Rolla』(1974年)や2ndの『Sad Wings of Destiny(運命の翼)』(1976年)はハードな曲もありますが、いわゆるブリティッシュ・ロックやプログレッシブ・ロックの影響を感じさせるものでした。あなたたちはどのように“ヘヴィメタル”というスタイルを築き上げていったのでしょうか?
あれは進化の末に手に入れたものだと思う。当時聴いていたさまざまなバンドから僕らは影響を受けていた。僕はクリームのジャック・ブルースに、ケン(K.K.ダウニング/g)はジミ・ヘンドリックスに、ジョン・エリス(d)はブラック・サバスが好きで、僕らはほとんどの音楽が好きだったと思う(笑)。ロブはレッド・ツェッペリンのロバート・プラントのスタイルを好きで聴いていたところもあるんじゃないかな(笑)。そういったさまざまなものを混ぜ合わせることでユニークなひとつのサウンドを僕らは作っていたんだ。そういった影響を受けてきた部分は僕らの初期の作品にけっこう感じられるものだろうけど、『British Steel』(1980年)の頃にはサウンド、スタイル、方向性がかなり定まってきたと感じている。あの頃から『Defenders of the Faith(背徳の掟)』(1984年)の頃くらいまで、僕らは方向性をしっかりと定めて歩み続けてきた。『Turbo』(1986年)からは少し実験的な方向を歩むようになった気がするけど、『British Steel』で僕らのバンドとしての形を作ったと思うんだよね。
━━今、名前の挙がった『British Steel』は、確かにジューダス・プリーストらしいスタイルを確立したと思うアルバムです。しかし多くのファンや評論筋からは4thの『Stained Class』(1978年)あたりもその足がかりだと言われています。
あれももう一枚のグレイトなアルバムだよね。CBSからリリースした2枚目のアルバムで、僕らはアルバムを作るごとに進化していることを強く感じた。レコーディングにおいて新しいことにトライすることを恐れず、その結果、気に入るものは残し、そうでなかったものも捨て去らずに自分たちの心のなかに取っておいた。その結果当時としては革新的なアルバムを世の中に出すことに成功したんだ。
━━『Painkiller』(1990年)は、それまでにないアグレッシブな作品で、新たに若い世代のファンも獲得しましたが、あなたにとってあの作品はどのような位置づけにありますか?
『Ram It Down』(1988年)の頃からバンドとしての新たな展開は始まっていたと思う。『Turbo』ではギター・シンセサイザーを導入したりと新たな実験をしたので、新たにファンを得たと同時に失ったファンもいたと思う。おかげであのアルバムのようなことを繰り返すのは難しくなり、よりハードでエッジが効いた『Ram It Down』を作り、そのハードさを維持したまま『Painkiller』へとつながっていったんだ。それでいて当時僕らが影響を受けていたものがアルバムの中身に反映されている。あのアルバムはかなりハードでアグレッシブなアルバムだよね。