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    追悼 – ロビー・シェイクスピア

    • Text/Interview:Daisuke Ito

    2021年12月8日、スライ&ロビーのロビー・シェイクスピアが腎臓の病気で帰らぬ人となった。享年68歳だった。“世界最強のリズム・セクション”と称され、レゲエ・ミュージックとジャマイカ文化の発展に多大なる功績を残してきたユニット、スライ&ロビーにおける彼のベース・プレイは多くのリスペクトを集め、現在でも世界中のリスナーを魅了している。ここでは彼が歩んだ軌跡を振り返るとともに、過去の本誌インタビューを再掲載することで、改めて、その功績を讃えたいと思う。

    BIOGRAPHY
    ━━レゲエ・シーンの功労者、最強のリズム体を築いたその半生

     巨星堕つ━━レゲエ界を代表するベーシスト、ロビー・シェイクスピアが音楽界に残した偉業はあまりにも大きい。彼とドラマーのスライ・ダンバーから成るユニット=スライ&ロビーは、“世界最強のリズム・セクション”と呼ばれ、リズム体としては世界で最も知られた存在だ。彼らはレゲエのみならず、ロック、ポップス、ジャズと多様なミュージシャンに起用され、これまでに残した膨大なレコーディング曲数はなんと20万を超えている。幸運にも筆者は幾度かロビーに取材する機会に恵まれた。饒舌に語るスライとは対照的に、ロビーはいつも口数は少ない。だが、語る言葉の多くは本質的だったことを今でも強烈に覚えている。なぜならそれは、ロビーのプレイ・スタイルそのものであるからだ。

    音楽一家からセッション・ベーシストの道へ

     ロビー・シェイクスピアことロバート・ウォーレン・デイル・シェイクスピアは、1953年9月27日にジャマイカのキングストンで生まれ、音楽一家という環境で育った。彼の兄である故ロイド・シェイクスピアはのちの名シンガー、マックス・ロメオとともにバンド、ヒッピー・ボーイズで活動していた。そこに加入したのが、のちのボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのリズム・セクションとなる、アストン“ファミリーマン”バレット(b)とカールトン・バレット(d)の兄弟だった。もともとはギターを学んでいたロビーだが、ファミリーマンの手ほどきもありベースへ転向。ロビーはファミリーマンのもとでベースを学んだ。若きロビーを代表する楽曲がボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの1st作『Catch a Fire』に収録される「Concrete Jungle」だ。シンプルながらに奔放で、歌うようなフレーズが印象に残る。

     1970年になると、ロビーは多くセッションに参加するようになる。当時、ジャマイカではルーツ・レゲエが大きなムーヴメントになっていた。その一角を担った名プロデューサーがバーニー・リーである。彼のレーベルのハウス・バンド、アグロヴェイターズにロビーは参加。この頃、のちの盟友スライとも出会っており、キングストンのクラブが抱える雇われドラマーだったスライは町一番の腕利きとして知られていた。スライとロビーの初レコーディングはアグロヴェイターズだったが、そのときのことをロビーは、“彼(スライ)はまさに俺が理想としていたプレイをするドラマーだったよ”と語っている。1975年には名門レーベル、チャンネル・ワンのバンド、レヴォリューショナリーズにスライが在籍し、ゲストとしてロビーが呼ばれることが多々あった。このバンドはスライの攻撃的な“ミリタント・ビート”のおかげで、ジャマイカで最も影響力を持つレーベルへと成長した。また、ジョー・ギブスの専属レーベル、プロフェッショナルズでも彼らはイニシアチブを握っていたほか、ロビーは名手リロイ“ホースマウス”ウォレス(d)とロビーを中心としたバンド、ブラック・ディサイプルズでも活動した。このように70年代の多くの重要レーベルのバンドの一員となったロビーは、ファーストコールのミュージシャンとしての評判を獲得する。多忙なセッションマンとしてのキャリアはこの頃から始まった。

    スライ&ロビーの結成
    共同生活で高め合ったグルーヴ

     現場で顔を合わせる仲だったロビーとスライだが、次第にふたり組での活動が増えていく。そのきっかけはピーター・トッシュのバック・バンドだった。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズを脱退し、ソロとしての道を歩んだトッシュは1st作『Legalize It』(1976年)をリリースしたあと、ローリング・ストーンズのレーベルとの契約後第一弾作『Bush Doctor』(1978年)ではロビーをプロデューサーに迎えている。トッシュのバンドを始めた頃、ロビーとスライは同じ部屋に住んでいた。ふたりはいろんな音楽を聴きながら、思いついたアイディアをステージやスタジオで実験していったそうだ。そのことをスライは2009年のリズム&ドラム・マガジンのインタビューで回想している。“僕がある曲のドラム・パターンを新しくすると、彼はそれに応じてベース・パターンを変えるという具合いに、何も言わなくても反応し合えるようになったんだ。僕がパターンを変えると、彼はその土台を作り、彼がパターンを変えたら、僕が彼のための土台を作る……僕らは常にお互いを支え合っているんだ”。

     共同生活をきっかけに阿吽の呼吸を体得したスライ&ロビーは、自身のレーベル “タクシー”をスタートさせる。最先端の機材を好んでいたスライは、いち早くシンセ・ドラムを駆使し、タクシーはデジタル化するレゲエ・サウンドの先駆けになった。だが、あえてここで注目したいのは80年代前半の生のサウンド。快活なスライの生ドラムのサウンドとヘヴィなロビーのべースが聴ける名曲が多い。一例を挙げると、隙間を生かしたトラディショナルなベースが聴けるグレゴリー・アイザック「Soon Foward」、不朽の名ベース・ラインを収録したアイニ・カモーゼ「World a Music」、ルーツ・レゲエの重厚さとドラマティックさを兼ねたタムリンズ「Baltimore」など、いずれもレゲエ・ベースの経典とも呼べる名曲だが、これらの曲は“クラシック・リディム”としても名高い。リディムとはドラムとベースで構成されるレゲエのリズムのことで、レゲエにはヒットしたリディムを用いて、多くのアーティストがそれぞれの歌を入れたバージョンをリリースする文化がある。20万曲を超えるスライ&ロビーの膨大なクレジットは、このレゲエ独自の慣習にも由来する。

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