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追悼 – ポール・ジャクソン

  • Text:Eisuke Sato
  • Interview:Fumi Koyasu(Bass Magazine 1998 JUL)

3月の中頃、ベース界に悲しい知らせが飛び込んできた。稀代のベース・プレイヤー、ポール・ジャクソンが73歳で逝去した。ジャズの巨匠ハービー・ハンコックとともに活動し、多様なアーティストのサポートを行なうだけでなく、ハービーのアルバム『ヘッド・ハンターズ』のメンバーと結成したザ・ヘッドハンターズの一員としても数々の名演を残している。1980年代頃からは日本に在住し、本誌のインタビュー取材や奏法企画にもたびたび協力してくれ、その演奏スキルは日本のベーシストにも広く伝えられた。ここでは、彼の功績を振り返るとともに、過去の本誌インタビューを再掲載することで、彼へのはなむけとしたい。

BIOGRAPHY
━━グルーヴの海を航海した、ジャズ界の重要ベーシスト

 大人(たいじん)。ポール・ジャクソンの訃報に接し、そんな言葉を思い浮かべた。それは、彼が身体の大きな人であったこともあるが、そのベース演奏が導く懐の深さ、大きな揺れのようなものが、まさにそう言うべきものであったからだ。

 ジャクソンはサンフランシスコ隣のオークランドに1947年に生まれ、育っている。やはり、彼の唯一無二のベース演奏の肝は、オークランドで培ったものであるのは間違いない。タワー・オブ・パワーのビートを語る際にも“オークランド・ストローク”という言葉が用いられたりもするが、ジャクソンが発するグツグツとしたシンコペーションはさまざまな人種が暮らすオークランドの環境が導く魔法の感覚を直截に映し出すものと言える。

 9歳でベースを始めたが、一方でピアノやファゴットを弾いたり吹いたりし、クラシックの教育も受けたという話は興味深い。14歳でオークランド交響楽団と共演し、サンフランシスコ音楽院でもジャクソンは少し学んでいるようだ。当然、彼はコントラバスも弾き、ジャズ奏者としての心得も身につけている。

 1970年頃からジャクソンは同地のシーンで頭角を顕わし始め、オークランド〜ベイ・エリアの美点を凝縮したような大所帯ラテン・ロック・ファンク・バンドのアステカに加入し、『Azteca』(1972年)や『Pyramid of the Moon』(1973年)の録音に参加。同グループはシーラ・Eの父親のピート・エスコヴェード(per)が中心となり、ジャクソンはそこで一部ダブル・ベースも弾いている。

『ベース・マガジン 1998年7月号』では表紙を飾ったポール。20年の時を経て復活したザ・ヘッドハンターズ(ハービー・ハンコックも参加!)についての裏話や、演奏曲の奏法分析が掲載された(本記事の3ページ目にアーカイブ・インタビューを掲載)。

ハービー・ハンコックとの出会い
信頼されるグルーヴ・センス

 ジャクソンが広く認知を受けたのは、ハービー・ハンコックがエレクトリック・バンド編成のもと一躍ファンク・ミュージックに踏み出した、大ベスト・セラー作『Head Hunters』(1973年)の録音に参加したことによる。当時、ハンコックのマネージャーをサンフランシスコ在住の敏腕プロデューサーであるデイヴィッド・ルビンソンが務めており、ルビンソンがハンコックのファンク化をあと押しするなかで、ジャクソンはハンコック・グループ入りを果たした。

 続くハンコックの『Thrust』(1974年)でドラマーがハーヴィ・メイソンからオークランド・ネイティヴのマイク・クラークに変わり、いよいよヘッド・ハンターズたる決定的なジャズ・ファンク・グルーヴが完成する。好評からその構成員はハンコック抜きでも活動するようになり、ザ・ヘッドハンターズというグループ名のもと2003年にかけてアリスタやヴァーヴ他から4作のアルバムを発表。それ以降もザ・ヘッドハンターズはマイク・クラークを中心にアルバムを出しているが、それらはT.M.スティーヴンスやレジー・ワシントンらがベースを弾いている。なんにせよ、ザ・ヘッドハンターズの核にあったのはジャクソンとクラークが阿吽の呼吸で送り出すタイトにして揺れるビートにあったのは間違いない。当然のことながら、クラークのハンコック・グループへの加入はジャクソンの推挙による。そして、1975年夏の来日時に録られたハンコックの実況盤『Flood』(1975年)はジャクソンとクラークのタッグ演奏を明快に収めた好作だ。また、ふたりは『The Funk Stops Here』(1992年)や『Conjunction』(2001年)といった双頭名義のアルバムも出している。

 話は前後するが、オークランド・ファンクの肝を持ちつつ、ジャズ的なスポンテニアス性を存分に持つジャクソンのことを、1970年代にハンコックはとても信頼していた。彼は自らの伝記で、臨機応変にベース・ラインを変え同じフレーズを弾かないジャクソンに“同じフレーズも弾いてほしい”とリクエストを出すことがあったと書いている。その信頼はジャクソンによる曲の表情を規定する材料の秀でた提出能力からも来ており、『Head Hunters』収録のキラー曲「Chameleon」をはじめ、彼が参加したハンコック作にはジャクソンが共作者としてクレジットされる曲が収録されていた。先に触れたアステカの2作にもジャクソンの単独コンポーズ曲があったし、彼が秀でたソングライターであったことはもっと強調されていいだろう。なお、先に触れた『Flood』以降も、1980年にかけてジャクソンは6作ものハンコックのアルバム・レコーディングに参加している。

多面的な魅力を内包したリーダー作を発表
日本アーティストとの邂逅

 自在に流れる肉感性に満ちた彼の演奏は、まさにオンリー・ワン。重量感のある演奏のなか1〜2弦による浮いたフレーズの繰り出し方はまさに彼ならではの妙味と言える。また、曲によってはハーモニックス音や4弦の開放音を効果的に用いてもいた。彼は2フィンガー主体の演奏をするが、ときにスラッピングのようなアタックの強い音をアクセントとして出す場合もあったし、後期リーダー作にはフレットレスかと思わせるようなサウンドも入っている。

 1970年代にジャクソンはザ・ポインター・シスターズ『Steppin’』(1975年)、エディ・ヘンダーソン『Sunburst』(1975年)、スタンリー・タレンタイン『Everybody Come On Out』(1976年)、サンタナ『Festival』(1976年)、ツトム・ヤマシタズ『Go』(1976年)、笠井紀美子『ラウド・アンド・ラウンド』(1978年)などのアルバム録音に参加し、得難いグルーヴを提供している。

 さて、そうしたポール・ジャクソンの初のリーダー作は、1978年の『Black Octopus』。それは1978年にハービー・ハンコックのツアーで来日した際、東芝EMIのジャズ・セクションの求めで作ったアルバムだった。そこでハンコック・バンドの面々のサポートを受け、彼は内にある引き出しをいろいろ開けている。アブストラクトなジャズ志向の曲や砕けたソウル・フュージョン調、自らの深い歌声をフィーチャーするR&B/ファンク調の曲群までさまざま。ヴォーカル・ナンバーには、金子マリと亀渕友香という当時ソウルフルな歌声を持つ日本人女性シンガーの2トップがコーラスで参加してもいる。また、そこにはダブル・ベースをグイグイと推進させるノリで弾く曲もあった。

 そして、ジャクソンは1985年以降は日本に住むようになった。奥さんは日本人で、市川に居住したようだ。日本在住を機に彼は子供たちにアフリカン・アメリカンの音楽の積み重ねやバリエーションを伝える“Jazz for Kids”というプロジェクトを持った。その音楽が同名のアルバム(1988年)となり、その活動はNHKでも取り上げられ、文部省によってドキュメンタリー番組が作られたりもした。

日本を拠点にしつつ世界へ
度重なる国内外のコラボレーション

 日本に住むようになってからも彼はザ・ヘッドハンターズでツアーをしたり、海外レーベルからアルバムを出しており、それらはすべて日本から出張っての活動だった。もちろん日本人ミュージシャンとも絡み、鍵盤奏者のミッキー吉野との双頭アルバムである『Jazz for Kids』は現在、Apple Musicをはじめとするストリーミング・サービスでも配信されており、先の同名作の発展形の内容であるのを認めることができる。それから、Charは一番信頼していた日本人アーティストのひとりか。筆者は2002年3月にブルーノート東京で、2008年6月にはビルボードライブ東京で、彼とCharが共演する姿を観ている。後者を含む2008年ツアーのマテリアルは『Stop My Hand Special Session』(2009年/ジミー・コープリー&チャー名義)という映像作品にまとめられた。

 ほかにもジャクソンは、『Funk on a Stick』(2005年)と『Groove or Die』(2014年)というリーダー作をリリース。前者はハンコックら多様な有名人/実力者が参加してのもので、後者は欧州ツアーののちに同じトリオでロンドンでレコーディングされている。ともにジャズからR&B/ファンクまでを太っ腹にくくるものであり、ジャクソンのディープなヴォーカルの良さを受け取ることもでき、ともに聴くに値する。

 そんな偉人ポール・ジャクソンは、この3月18日にお亡くなりになった。死因は明らかになっていないが、2015年以降は健康上の理由でツアーに出るのを控えたという記載が海外記事にあり、また引っ越していた関西で亡くなったという文言も見つけられる。その訃報はマイク・クラークやハービー・ハンコックのSNSによる報告で広く伝わり、サンダーキャットをはじめさまざまなミュージシャンが追悼の意を表している。当然のことながら。

 いつの時にも、本能と研ぎ澄まされた感覚と山ほどの創意が綱引きしあった、人間的で重いベース演奏があった。そして、そこにはオークランドの土壌とジャズやR&Bを産んだアフリカン・アメリカン音楽の素敵がこれでもかと渦巻いていた。なぜ、音楽にはベースという楽器が必要なのか、どうして僕たちはベースの音に惹かれるのか。そんな問いかけに、ポール・ジャクソンは多大な技と山ほどのドキドキとともに、応え続けてきた。そして、これからも彼が示したベースの誉れはさまざまな人によって受け継がれていくに違いない。

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