SPECIAL
UP
ファンクの誕生、そして黄金時代へ――1964~1979【誌面連動】
- Text:Eisuke Sato
- Illustration:Hideo Goto
パフォーマーの汗がほとばしり、聴くものの腰を揺らす情熱と恍惚の音楽、ファンク。1960年代中期のアメリカに誕生したこの音楽は、次第に広大なアメリカ本土に飛散し、同時多発的に独自性の高いスタイルへと発展して隆盛を極めていった。なによりも“グルーヴ”が重要となるファンクは、ベーシストにとって必修科目と考えられるほどに、アンサンブルの中核を担っている。
『ベース・マガジン 2021年2月号(Winter)』では、そんなファンクの黄金時代に焦点をあて、多角的な視点でその魅力について再確認する大ヴォリュームの巻頭特集を掲載している。ここではその導入部分となるファンクの誕生と歴史について解説していこう。
第一章 “オイラだけ”のJBファンク
ファンク。そう書くだけで、ドキドキしてしまう。なんか反復するグルーヴィなベース・ラインが思い浮かんできて、ムズムズと腰が揺れてしまう人は少なくないのではないか。秀でたファンク曲は説明する際に“口ベース”を用いたくなるものが少なくない。それは、ファンクにおいてファットなビートと噛み合うベース音が重要なファクターであるからだ。それはほかのジャンルにはない特徴的なことであり、ファンクの要点であると言える。
そんなファンクの創始者は、ジェームス・ブラウン(JB)である。1950年代中期からキャラに富む秀でたシンガー/ソングライターであったJBはスピード感やテンションを鬼のように注いだ、“オイラだけ”の表現にどんどん邁進。1960年代中期には、諸説あるが音楽史上初のファンク曲とされる1964年作「Out Of Sight」や1965年作「Papa’s Got A Brand New Bag」など、その後につながるファンク表現を胸を張って提出している。
その要点は、“リフの繰り返しが生きた、少ないコード数”と“シャウトや掛け声が際立つ、単語数の少ない歌詞”、そして小節のアタマを強く意識することで一体感を生む“THE ONE”(ザ・ワン)。ようは、ミニマムな要素で最大限の効果を得る表現だった。それらはタイトで弾力あるビートを採用し、おうおうにして管セクションを伴う傾向にあった。JBも大きな編成でことにあたり、いくつかのバック・バンドが存在するが、代表的なところではザ・JBズがいた。
ザ・JBズには通常複数のドラマーが在籍した。黄金期を支えた名ドラマーであるクライド・スタブルフィールドに、2007年来日時にそのワケを問うたら“ある晩のライヴでドラマーが喧嘩して帰ってしまったことがあって、それから彼は保険でドラマーを複数揃えるようになった。俺がJBズに入ったときはドラマーが5、6人もいてどうすりゃいいんだと思ったよ。でも、ミスター・ブラウンはいいから叩けと言ってさ……”と発言。ドラマーが複数いるからこそのばらつきや広がりが、スケールがデカく、肉感的でもあったJBファンクの表現を生んでいたのは疑いがない。とともに、その事実は“酔狂さは正義であり、定石なんか糞食らえ”といった気持ちがJBファンクの根底にあったことを示す。
JBがファンクを確立したのは、オハイオ州シンシナティに拠点を置くキング・レコード時代である。そして、ツアーも多かったろうが、彼も当時シンシナティに拠点を置いていたという。今も生き続けるファンクという黄金の回路が、シンシナティという中西部の都市で確立されたという事実は興味深い。時差があることが示すように、アメリカは広い。東と西、北と南では気候も生活観も異なり、やはりそれは音楽にも強く表われる。それは、当然のことながら多様性をもたらす。衝撃的なJBファンクの登場後、それは米国各地に飛び火し、多様なスタイルのファンク表現が同時多発的に現われる。そこで、ここではアメリカ本土を中西部、東海岸、西海岸、南部の主要地区に分けて、広大な土地に生まれた独自性の高いファンカーたちを紹介していこう。
JAMES BROWN
ジェームス・ブラウンは1933年に米国サウスカロライナ州のバーンウェルに生まれる。子供時代から高い歌唱力を持つが、音楽を志したのは16歳以降で、車の窃盗で逮捕されて服役していた際に慰問ライヴで歌っていたボビー・バードと出会ったことに端を発している。“ショー・ビジネスで最も忙しい男”と語り継がれる彼の人生については、その生き様を綴った伝記映画『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』で、主演をチャドウィック・ボーズマンに据えて詳細に描かれているので、ぜひとも観てほしい。
第二章 純度の高いファンクが生まれたミッドウェスト
「It’s Your Thing」をはじめとする胸のすくファンク・ナンバーで知られるアイズレー・ブラザーズもまたシンシナティで結成されたバンドだ。美メロ曲「Between The Sheets」のようなメロウでセクシャルなバラードも得意だった彼らは、JBファンクとは異なり管楽器を用いないスタイルでファンクの可能性を追求。ロック曲のカバーにも積極的だった彼らはジミ・ヘンドリックスが一時在籍したとも言われるが、ギタリストのアーニー・アイズレーもメロディアスかつ歪んだジミのような演奏を得意とし、ヘンドリックス調ギター演奏とファンクはおうおうにしてマッチする。これは、ジミ・ヘンドリックス型ギター奏者をフロントに並べることを是としたジョージ・クリントンのファンカデリックと共通する要素である。
JBらと並んでファンク・レジェンドと評されるジョージ・クリントンのパーラメント/ファンカデリックも、その音楽性は中西部で確立された。もともとPファンクはクリントンの実家が東部ニュージャージー州プレインフィールドで床屋をしていて、そこに集まる不良たちを束ねたのが発端。そして、1966〜67年に彼は成功を夢見てモータウンがあったミシガン州デトロイトに移り活動を始めた。ギトギトしていて百花繚乱という表現もしたくなるファンカデリック/パーラメントは、デトロイトのインディ・レーベルであるインヴィクタスやウェストバウンドから作品をリリースして、その破天荒な指針に貫かれた屋台骨を築いた。メイシオ・パーカー(sax)やブーツィ・コリンズ(b)らザ・JBズのコア・メンバーはのちにPファンクに流れており、中西部は凝縮されたファンクのるつぼ的エリアであったことが想像できる。
GEORGE CLINTON
JBが生んだファンクを継承した代表的な人物といえばやはりジョージ・クリントンだろう。宇宙とコミックを合体させた独創的な世界観でファンカデリックとパーラメントという2大バンドをパッケージし、現在でもその影響を公言するアーティストはあとを絶たない。
そのデトロイトやシカゴは中西部の大工業都市で南部の黒人労働力を集め、それが音楽シーンの活況につながった。シカゴはモダン・ブルースの中心地となりチェスやヴィージェイ、デルマークといった黒人音楽のレーベルを生んだ。アース・ウインド&ファイアー(EW&F)はチェスのスタッフ・ドラマーをしていたモーリス・ホワイト(vo)が新時代のファンク・バンドを作ろうとシカゴでその前身を組んだバンドだった。チャカ・カーンをリード・シンガーに立てたルーファスも1960年代後期にシカゴから飛び出した。
一方、シンシナティがあるオハイオ州は“ファンク・ステイト”として名高い。同州は「Fire」(1974年)や「Love Roller Coaster」(1975年)という全米1位曲を出したオハイオ・プレイヤーズを筆頭に、骨太なファンク・ビートと充実したヴォーカルを拮抗させたスレイヴやレイクサイド、デイトンといった魅力的なファンク・バンドを多数輩出している。実は、オハイオ州は8割以上を白人が占める州で、アフリカン・アメリカン居住率が高い場所ではない。一度、ローリング・ストーンズのライヴを観に筆者はシンシナティに行ったことがあるが、パっと触れたぶんにはとてもキレイな白人の街だった。あくまで推測になるが、人数が少ないぶん結束度や純度が強まり、オハイオ州のブラック・ファンクは次々に送り出されたのではないだろうか。
OHIO PLAYERS
地元オハイオをバンド名の由来とするオハイオ・プレイヤーズ。1959年に結成され、キャリア初期にはマイケル・ジャクソンの父親であるジョセフ・ジャクソンなどが在籍したバンド=ファルコンズのバックを務めていた。後続に与えた影響は大きく、レッド・ホット・チリ・ペッパーズは彼らのヒット曲「Love Roller Coaster」をカバー。ヒップホップでは、西海岸のギャングスタ・ラップの代表格ドクター・ドレを筆頭に多くのアーティストにサンプリングされた。