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FEATURED BASSIST – 廣瀬“HEESEY”洋一
- Interview:Koji Kano
- Photo:Taichi Nishimaki
還暦&ソロ・デビュー20周年記念特別企画
〜稀代のロック・ベーシストが刻んだ60年の真実〜
THE YELLOW MONKEYのほか、精力的なソロ活動を展開する廣瀬“HEESEY”洋一が、2023年に還暦、そしてソロ・デビュー20周年を迎える。
それを記念し、現在発売中のベース・マガジン2023年5月号【SPRING】では、“FEATURED BASSIST”としてHEESEYを8ページでピックアップ! HEESEYのベーシスト人生を総括する特別企画として、ロック・シーンを駆け抜けてきた軌跡とともに、愛器である貴重なヴィンテージ・ベースの数々を自らの言葉で語っている。
BM Web版では、本誌に入りきらなかった別内容のインタビューをお届け。本誌の発売日である4月19日に60歳のバースデーを迎えたHEESEYのベーシストとしての生き様を、Web/誌面の両記事から感じ取ってほしい。
どんどんアンサンブルをリードしていくような
自分のルーツとするスタイルを提示したかった。
━━HEESEYさんは先日(4月19日)還暦を迎えましたが、HEESEYさんのルーツであるジーン・シモンズ(KISS)は今年で74歳になります。還暦というひとつの節目にはなりますが、ぜひHEESEYさんにもその年齢まで走り続けてほしいと思っています。
ハハハ、そうですよね(笑)。僕の生まれた1963年って、(ローリング)ストーンズとかビートルズが世に出てきた時期で、いわゆる“あの第1世代のロック”が始まった年代でもある。だからこそ(ポール)マッカートニーとかミック・ジャガーがまだ現役でやっているっていうのはすごく励みになります。一番影響を受けたジーン・シモンズ師匠もそうだし、この前ライヴを観に行ったレッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)もちょっと上の世代で現役なので、僕もまだまだ頑張りたいと思いますよ。
━━ちなみにHEESEYさんが本誌に初めて登場した1995年3月号の表紙はジーン・シモンズで、そのときはTHE YELLOW MONKEY(以下、イエローモンキー)の『Smile』リリース時のインタビューでした。
そうでしたね。1995年の1月にKISSが来日したとき、『ロッキンf』でジーンと対談させてもらったんですよ。そのときのこともよく覚えていて、『Smile』を出したときは僕らの初武道館のタイミングだったんですけど、ジーンに“頑張れよ”って言われて感激したことを今でも思い出します。ベース・マガジンは2回も表紙を飾らせてもらいましたよね。ありがとうございます。
━━このインタビューでは、HEESEYさんのこれまでのキャリアからいくつかの分岐点をピックアップしてお話を聞いていこうと思います。まずイエローモンキーの楽曲を改めて聴き直していくと、インディーズの1st作『BUNCHED BIRTH』(1991年)の時点で、その後に通じる細かくメロディを刻んだリード・フレーズを各所で聴き取ることができますね。
『BUNCHED BIRTH』は僕が始めて世の中に出した音源だし、この作品が僕にとっての1stでもあったので、自分のこだわりというか、世に自分のベース・ラインを出すにあたって、自分が納得するようなプレイを魅せたいと思っていたんでしょうね。“楽曲に対してどうベースをアプローチしていくか”を考えたとき、やっぱりどんどんアンサンブルをリードしていくような、自分のルーツとするスタイルを提示したかった。当時はオルタナ/グランジとか、ベースは支えに徹する音楽が流行っていた時期ではあったけど、ベースの動きで言ったらレッチリのフリーとかの考え方に近かったのかな。ギターとベースがあまりユニゾンせず、お互い独自のフレーズを弾く感じとか。
━━そういったベース・ラインを弾けるようになるために、どんな練習をしていたんですか?
当時はベース以外の楽器が弾けなかったので、カッコいいギター・リフとか、シンセとかストリングスのメロディがあったら、一回ベースで弾いてみるってことをやっていました。今考えてみると、それが良いアイデアのもとになったのかもしれませんね。本来ベースじゃ弾かないような音程もベースで弾いてみて、“うまくハマったからベース・ラインで弾いてもOKじゃん!”みたいな感じでフレーズに取り入れていったことが、自分の個性につながったんだと思います。
━━メロディアスなフレージングにはそういった部分が背景にあったんですね。
“普通、ベースはそこ弾かないよね”ってメロディとかをベースで弾いたり、ホーン・セクションの動きとかも真似て自分のフレーズに流用させたりしていましたから。イエローモンキーの『jaguar hard pain』(1994年)の頃までは、とにかくベース・ラインはマシマシな感じというか、そういった自分の引き出しを全部使ってフレーズを構築していた印象がありますね。
━━90年代の作品から最新曲「未来はみないで」を聴いていて思うのは、イエローモンキーの楽曲はバランスとしてベースの音量が大きいんですよね。それに関連する発言として、1998年4月号のインタビューでは“ベースの音が小さかったりすると吉井(和哉/vo)が上げちゃう。でもデカいベースの音がバンドのチャーム・ポイントでもある”と発言していました。
ベースの音量に関しては昔からよく言われてきましたね(笑)。特に90年代当時は、60年代70年代のロックに対する熱い思いがバンドにあったんですよ。その頃の好きなアーティストのレコードはベースの音量が大きいのが多かったみたい。だからそういうのが要因としてあったと思うし、吉井に限らず、僕自身で“もっと音量を上げて”って言っちゃたりとか(笑)。でも再集結後の『9999』(2019年)とかだと違う意味でベースに耳がいくというか、ギター/ベース/ドラムだけっていうシンプルなサウンド編成の楽曲が多いから、その分一本一本がぶっとい音として聴こえるようにはなっているので、時代とともにバンド・アンサンブルとしての聴こえ方も変わっていると思います。
━━『FOUR SEASONS』(1995年)収録の「Love Sauce」では初めて作曲者としてもクレジットされました。イエローモンキー活動休止後のソロ・プロジェクトでは全曲で作詞作曲を担当していますが、ここがコンポーザーとしての始まりだった?
そういうことになるかな。「Love Sauce」は吉井との共作になるんですけどね。あとイエローモンキーでは『SICKS』(1997年)に入っている「HOTEL宇宙船」でも作曲を担当しています。もともと、メンバーから“HEESEYも曲作ってみたら?”って言われて、最初は“えぇ……”って感じだったんだけど、思いついたメロディとかをバンド内で発表してみたら“いいじゃん”ってことで、みんなでアレンジをして形にしていく作業でしたね。
━━2003年に始まったソロ・プロジェクトHEESEY WITH DUDESは、ハードなロック・テイストの楽曲群で、ドライブ・ベースも印象的でした。イエローモンキーとはまた違った、ロック・ベーシストとしての新しい一面を提示したプロジェクトだと感じます。
作曲面に関しては、イエローモンキーはもちろん、長く活動を共にして近くにいた吉井からの影響も大きかったと思います。彼の作曲法やアレンジやバンドでのアレンジを参考にした部分もあったし、そこに対して“自分だったらどういう風にしたいか”っていう自分の音楽性とか個性を入れ込んでいった形ですね。HEESEY WITH DUDESの楽曲では、やっぱりどこか自分のルーツのなかのハードなテイストを強調させたいって思いもあったし、それが結果としてベース・サウンドにも反映されたのかなって思います。
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